大暗黒生命体

大暗黒生命体
深い深い、最も深い奥底
真っ暗闇
二度と助からない
無間地獄
無限の時間
もう助からない
ただ横たわる

生きたまま無間地獄に落ちる
もう助からない
無限の時間にわたり存在し続ける
大暗黒生命体

生きたまま大暗黒に落ちる
大暗黒生命体

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阿羅漢の境地と玉城康四郎の境地の違い

『大法論 12月号平成26年』 p.68 井上ウィマラ氏の文章を引用させていただく。

解脱の最終段階は阿羅漢と呼ばれ、欲望を超えた微細な身体をもつ世界への執着、精神だけの世界への執着、プライド、心の浮つき、無明という残りの束縛がすべて乗り越えられている。人々からの「供養を受けるのに値する人」というのが阿羅漢の原義だ。世間的な善悪の価値観から解放されているため、自然に世間を捨てた人(出世間)的なライフスタイルを選ぶようになる。善いことをしても「善いことをした」というこだりわりがない。



この文章を読み、ふーん、そういうものなのかな?…。常人離れした超人みたいだなあと思ってしまった。

ところで、過去、某人が井上ウィマラさんなどのいう阿羅漢の境地と玉城康四郎の境地を同じと考えている様子をみて、私は正直、強い違和感を感じたことがある。
業熟体に身をもって取り組んだ玉城は、超人などではなく、私たちと同じ常人であり、常人のままにブッダの境地を実現した。
玉城自身、自身の著書で、ブッダの実現した禅定の境地と自分のものとではその器と規模が雲泥の差の程大きくちがうが、その本質とするものは全く同じと述べている。そして、誰でも正しく学び実践すればその境地に到るといっている。
また、玉城は、修行者は初地、中地、終地という3つの段階の道程を一般的に辿る、と説明している。その終地は仏乗であるとしている。
以上のことからして、両者を同じとみる某人の見解に疑問を向けざるを得ない。

玉城康四郎名言集

さて、出定して日常に戻れば、依然として無明・我執のすがたである。そのような無明・我執の私が、ひとたび入定すれば通徹したダンマ・如来は、私の体から溢れ出て宇宙区間へと放散される。そして、このように定着したままに深まれば深まるほど、日常の私は底知れぬ無明・我執に、いよいよ深刻に身につまされる。


玉城康四郎『仏道探究』

入定とは、無明・我執のままに、ただひたすら如来に打ち任せるだけである。私はただ赤ん坊の無心のまま、打ちくつろいで、安じたまま、座るだけでよい。やがて寂かに吐き出される息は、喉の奥の奥から、さらには私の体の尻から、さらには大地の大地の底から、そしてついには宇宙の根源から、ダンマとなり、如来となって、間断なくお出ましになる。私の全人格体は想像を絶する厳粛と緊張に畏むのみである。


玉城康四郎『仏道探究』

入定して日常に戻っても、如来は、無明・我執の私に、どこまでもどこまでも付き従って、離れたもうことはない。寝ても覚めても、二六時中、私は如来と二人連れである。そして、何かの機に触れたとき、南無阿弥陀仏がお出ましになるのである。苦しい時も、楽しい時も、南無阿弥陀仏である。いつ、いかなる時も、やがて如来は充足したもうのである。


玉城康四郎『仏道探究』

もとより、ブッダの禅定と私の禅定とは、規模において天地の開きがある。器が違うのである。しかし、禅定の型において、またその意味するところにおいては、本質的にはまったく同一であるということができる。原始経典のブッダ自身もまた、教えのとおり行じていけば誰しもそうなるということを、明言している。そして事実、私のごとき平々凡々の人間にも通ずるように教えておられる。しかも私に通じてみれば、この禅定こそ、仏道の根源態であることが明らかになったのである。


玉城康四郎『悟りと解脱』

ところで、この終地の境地は、禅定においてはどのような状況をさすのであろうか。それはまさしく、ブッダにおける開悟直後の三夜の偈のうちの、最後の後夜の偈、
「実にダンマが熱心に入定しつつある修行者に顕わになるとき、かれは悪魔の軍隊を粉砕して安立している。あたかも太陽が虚空を照らすがごとくである」
という一句に相当しているということができよう。
 つまり、ダンマがブッダの全人格体に顕わになり、滲透し、通徹して一切の煩悩を粉砕し、さらに太陽が虚空を照らすように、全宇宙を照らし抜いている。それはブッダ自身ではなく、まさしくダンマの働きなのである。
 このことを、ブッダに学ぶ私自身の禅定においてみるとき、ダンマすなわち形なきいのちそのものが私の全人格体に通徹し、かつ充溢し、さらに全人格体から宇宙に向かって限りなく放散されていく。ダンマが私の人格体から空間に放散していくそのことが、仏道者としての私自身からいえば、現在から未来へと踏み出していくことである。しかしその働きは、もとより私自身ではなく、ダンマであり、如来であることが明らかである。


玉城康四郎『悟りと解脱』

 ここで大事なことは、ブッダの禅定を教えのとおりに習っておりますと、平々凡々の私自身にもブッダと同じような禅定が実現してくる。つまりブッダは平々凡々の人間にも通ずるように教えておられる、これがひじょうに大事な点です。
 ところが、禅定出て日常に戻ってみますと、ほんとうに無明ということ、何にも分からんということがしみじみと感じられてきます。そしてよくよく思いをめぐらしてみますと、何も分からんということは、からっぽということです。からっぽだから入定すると如来が自由自在に働いてくださる。つまり、禅定というのは、何か行じようという心がいささかでもあったら、如来の働きを妨げることになる。したがって禅定とは、仏の働きにうちまかせるだけ、いや、むしろ、うちまかせるということさえいらない。如来はすでに私自身のなかに充足しきっているのですから、ただその働きにしたがうだけ、ということになります。
 ただ、そうなるまでにはひじょうにに時間がかかります。しかも、禅定を出て日常に戻ってみますと、その無明の奥底から我執がたち昇ってくる、煩悩が起こってくる。生きてるかぎり、我執が起こるのはどうしようもないことであります。


玉城康四郎『仏道探究』

先生の著書を熟読することが大事では?

玉城康四郎の仏教に関心があり、自らその仏道を歩もうとする方は、やはり先生の著書を熟読して、自らの行道の探究に役立てるのがいいのではないでしょうかね。

行道の選択は先生が著書で述べられたように、自身の縁にあったものでよいのではないですかね。

とはいえ、玉城先生が教えている行道の肝を無視して、明後日の方向に行ってしまってはならないですよね。だからこそ、先生の著書の熟読が大切ではないですかね。何かほかの先生のもとで何かしらの行道を習っても、玉城先生の示した道と大きくかけ離れてしまってはどうしようもない事態に陥ってしまうことだって十分ありうることではないですかね。

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プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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