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虎ノ門 金刀比羅宮へ行ってきました 5月8日

虎ノ門 金刀比羅宮へ行ってきました。

虎ノ門・金刀比羅宮 HP http://www.kotohira.or.jp/

祭神は大物主神と崇徳天皇。

私が金刀比羅宮を訪れた動機は大怨霊・崇徳天皇の参拝が目的。大物主神さん、ごめんなさい。

崇徳天皇怨霊の由縁はWikipediaによると次のようにある。

『保元物語』によると、崇徳は讃岐での軟禁生活の中で仏教に深く傾倒して極楽往生を願い、五部大乗経(法華経・華厳経・涅槃経・大集経・大品般若経)の写本作りに専念して(血で書いたか墨で書いたかは諸本で違いがある)、戦死者の供養と反省の証にと、完成した五つの写本を京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出したところ、後白河は「呪詛が込められているのではないか」と疑ってこれを拒否し、写本を送り返してきた。これに激しく怒った崇徳は、舌を噛み切って写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と血で書き込み、爪や髪を伸ばし続け夜叉のような姿になり、後に生きながら天狗になったとされている。



讃岐に流された崇徳上皇
  讃岐に流された崇徳上皇


以下、撮ってきた写真。へたくそだけど。。。

2011_0508虎ノ門 金刀比羅宮0001

2011_0508虎ノ門 金刀比羅宮0002

2011_0508虎ノ門 金刀比羅宮0003

あいにく、神社閉まってたー、がっかり。なんでー、日曜なのに。午後5時頃に着いたから、遅すぎたのかな?たぶん。

行く前に、しっかり心の準備をしていないでの参拝になってしまった。
次に行くときは、しっかりと準備を調えたいと思います。
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【ニュース】レバノンの墓からリアルな「牧羊神」の仮面

レバノンの墓からリアルな「牧羊神」の仮面 - MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/101020/acd1010201928003-n1.htm

奈良新聞WEB _ 社会 _ ローマ期の牧神仮面 - 奈良大が発見/レバノン
http://www.nara-np.co.jp/20101021104326.html

奈良大:レバノン・ティール遺跡調査 石棺から仮面出土 /奈良 - 毎日jp(毎日新聞)
http://mainichi.jp/area/nara/news/20101021ddlk29040508000c.html

牧羊神かたどった仮面出土 レバノンで、奈良大調査 - 47NEWS(よんななニュース)
http://www.47news.jp/CN/201010/CN2010102001000520.html

マザー・テレサの祈り、神の愛、仏教の極愛一子地

マザー・テレサ (著), ブラザー・ロジェ (著)『祈り―信頼の源へ』を本棚から取り出し、パッと開いたところを見てみた。
そこを引用させていただこう。

わたしたちはすべて
  神にとってかけがいのない者
道端で死んでゆくあの男の人も
  神にとってかけがいのない者
あの百万長者も
  神にとってかけがいのない者
あの罪を犯してしまった人も
  神にとってかけがいのない者
神は わたしたちを愛しておられるのだから

この、わたしたちへの神の愛を理解するためには、祈りが不可欠です。
もし、真剣に祈りについて考え、祈りたいと望むならば、今すぐ祈り始めなければなりません。
それは祈りへのほんの第一歩ですが、今、決心して、その第一歩を踏み出すことなしに、その最終地-神の現存-に到達することはできないのです。


以上、引用終了。

本当にすばらしい言葉である。
マザーテレサのこの祈りは、仏教の念仏・禅定にも通じるものである。
神の愛はすべての人に注がれている。神はすべての人を愛しておられる。
仏教も同じことを説く。
極愛一子地。如来はあらゆる人たちを我が独り子のように愛する。
一闡提という極悪人すら如来はわが独り子のように愛する。
極愛一子地とは如来であり、仏性であり、法身である。

極愛一子地については、緯線のエントリーで書いたので、興味のある方は参照下さい。
極愛一子地 - パンの仏道日記
原始仏典の釈尊と極愛一子地の菩薩、提婆達多と善星 - パンの仏道日記

【わたしたちへの神の愛を理解するためには、祈りが不可欠です。】とマザー・テレサはいう。
同じく、仏道でも、如来の極愛一子地を知るためにも仏道の実践が不可欠である。
如来を体感して知ることが大事である。
ダンマ・如来が貫き、放散されるようになる。そのしっかり確定した境地が終地であり、それを原始仏典に登場するブッダの四無量心の放散であると玉城康四郎は説明した。

終地は極愛一子地ではないことは以前のエントリーでも説明した。
終地の実現者は、その後、極愛一子地の菩薩となるために、ひたすら仏道の実践されていく。
極愛一子地の菩薩は超人的で、普通の人間には縁がないとごく普通に生きるわれわれにはそう思える。それは究極の理想像といえるのだろう。

われわれは現実にそのような菩薩にはなれなくても、極愛一子地が何であるかは、われわれの全人格体でもって知ることができる。そのためにこそ、行道の実践が不可欠である。
その実践によって、われわれは誰でも、玉城康四郎のいう終地に達することができる。

終地は仏道の根本・基本を実現したにすぎない。それはその人がその人のままに、如来とともに仏道を歩むことである。これが仏道の根本である。

終地の実現者は発心し、如来となることを目指して歩んでいく。あるいは、極愛一子地の菩薩となることを目指して歩んでいく。あるいは、浄土に往生して、そこで暮らして、ついに成仏を目指すという道もある。

マザー・テレサは【もし、真剣に祈りについて考え、祈りたいと望むならば、今すぐ祈り始めなければなりません。】というように、
仏道を歩もうとするわれわれも、如来を直接体感したいと望むならば、いますぐ、行道の実践を始める必要があるのではないだろうか。

神社の市有地無償使用は違憲 最高裁大法廷

東京新聞_神社の市有地無償使用は違憲 最高裁大法廷_社会(TOKYO Web)
政教分離訴訟:原告笑顔で会見 「地域の施設」困惑も - 毎日jp(毎日新聞)
政教分離訴訟:「市有地に無償で神社」は違憲 最高裁 - 毎日jp(毎日新聞)
政教分離訴訟の判決要旨 - 47NEWS(よんななニュース)

アビラの聖テレサ、「恍惚・歓喜」の神秘体験

アビラの聖テレサは、スペインのローマ・カトリック教会の神秘家であり、修道院改革に尽力した人物である。カトリック教会・聖公会・ルーテル教会で聖人。イエズスのテレジア(Teresa de Jesús)としても知られる。
『ウィキペディア(Wikipedia)』より。

神秘体験者である彼女の体験はどのようなものであったのだろうか。
『ウィキペディア(Wikipedia)』によって、以下、見てみよう。

テレサの全著作を通じての神秘思想の要点は、4つの段階を経る魂の向上である(『自叙伝』第5章22節)(訳注:この段階については諸説があり、必ずしもここでの説明が全てではない)。

その4つの段階は次のようになっているという。
第一段階の「瞑想」、第二段階は「静寂」、第三段階は「合一」、第四段階は「恍惚あるいは歓喜」。

第四段階は「恍惚あるいは歓喜」について、『ウィキペディア(Wikipedia)』より、以下、引用しよう。

第四段階は「恍惚あるいは歓喜」(devotion of ecstasy or rapture)という受動的な状態であり、ここでは身体が存在するという感覚が消滅する(「コリントの信徒への手紙二」12.2-3)感覚の働きが消えるということは、つまり、記憶や想像力までもが神にすっかり夢中になってしまう、あるいは、酔ったような状態になってしまうということである。身体と精神は、甘美な激痛、幸せな苦痛、恐ろしいまでに激しい輝きと完全な無能・無意識との間の交替現象、そして、しばしの窒息状態の中に置かれる。そしてそれは、身体が文字通り宙に浮く恍惚の浮揚のような現象によって時々中断される。半時間ほどこうした現象が続いた後、数時間の気絶のような衰弱状態の中で反動の弛緩を味わう。この時、神との合一の全ての働きを否定する気分を伴う。ここから、主体は自分の涙に気付く。つまりそれが神秘体験の絶頂、恍惚状態の創出なのである。

甘美な激痛、幸せな苦痛を除けば、彼女のそれは、玉城康四郎のいうダンマの顕現の体験に似ているといえる。
「身体が文字通り宙に浮く恍惚の浮揚のような現象」については、ちょっとどうかな?気がする。人によって、そのような感じはあるのかもしれない。仏教の禅定の、身体が軽安となることに相当するかもしれない。

身体や感覚の消失した、ダンマの顕現の【大爆発】はそれに似ているだろう。その絶頂状態から次第に醒めて、涅槃の安楽に留まるわけであるが、それもまた、次第に醒め、元の日常的な状態へと戻るのである。この体験も彼女のそれも同じようである。
彼女のいう「この時、神との合一の全ての働きを否定する気分を伴う。ここから、主体は自分の涙に気付く。」は意味がわからない。どのような意味なのだろうか。

それはさておき、両者の体験はとても似ている、というより、同じではないかと思う。ダンマの顕現の体験が、宗教の枠を超えた普遍的なものであるという玉城の主張の妥当性が、アビラの聖テレサの「恍惚・歓喜」体験を検討してみると、そのなかのひとつとして確認できるであろう。

以前のエントリーで説明したとおり、スーフィの【ファナー】も、アビラの聖テレサの「恍惚・歓喜」体験も、ラマナ・マハルシの【アートマンの実現】も、仏教のダンマの顕現も、みな同じであることがわかると思う。宗教の根源はこの体験にあるのだ。玉城康四郎はそのことを力説した。


ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ作
サンタ・マリア・デッラ・ヴィットリア聖堂 コルナーロ礼拝堂
天使の持つ神の炎の矢で胸を衝かれるアビラの聖女テレサ(イエズスの聖テレジア)
http://yaplog.jp/raguan/archive/148より。
プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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