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どうすれば、終地を実現できるの?

玉城康四郎先生は、自分の縁にあった行道を気長に実践していけば、必ず、不退転の境地を実現できるといっています。念仏、唱題、坐禅など、そのほか、いろいろな方法があるだろうと。原始仏典の説く実践法でないとダメというわけではないようです。

玉城先生は仏道実践の上で重要な示唆を与えるものとして、原始仏典の四禅に注目し、それを挙げて詳しく説明しています。
ここでは、超簡単に説明しましょう。四禅の第三禅の段階に楽が生じるとあります。身心一体となり、楽が生じている状態。この状態から、次の第四禅へ。ここで、解脱が得られる。ダンマが顕わになる。ダンマが顕現し、「私」が中心になっている状態から、ダンマが中心になっている状態となる。このとき、修行者は解脱したと知る、ダンマが得られたと知覚する。この特殊な状態に、その体験者は相当な衝撃を受ける。ついに、解脱が得られたと。しかし、それは単なる経験に過ぎない。いずれ、この興奮状態は醒めて、元の木阿弥に戻る。それが通常。だから、修行者は、その後も、禅定に専念し、ダンマの直接体験をえるように努力する。ダンマが次第に身についていくと、ついに終地に達する。通常、そこに達するには、それなりの時間がかかるようです。

念仏と禅は同じであると玉城先生はいいます。
念仏を唱え、安楽となる。安楽を体で味わっていくうちに、ついには、無為自然の境地にたどり着く。
楽により、三昧に入る。如来の働きによって、三昧に入る。如来の本願力によって三昧に入る。または念仏する。決して自分の力によってではない。楽とは如来の働きによって生じる。つまり、われわれは、この身心一体なる業熟体に本来働いているダンマ・如来によって、三昧に入ることができる。我力ではなく、仏力によって、そうなる。本来働いている如来の働きに従うことが実践の肝要であることがわかります。身心一体となり、楽を感じていることができていれば、その実践はうまくいっているといえるようです。
大乗の『涅槃経』が法身は常楽我浄であるという理由もこのことから、わかります。浄土教がいう無為自然の境地がそのまま浄土になっていることも、同じです。三密ユガ行によって、如来を実感することで、如来の加持力によって、三昧に入るということも同じです。
仏道の実践はきわめてシンプルですね。その本質は同じです。自分の体質にあった行道を選べばよいと玉城先生がいう理由がよくわかりますね。
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プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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