原始仏典の解脱至上主義と影の否認

原始仏典の解脱至上主義と影の否認

 如来と一体となり、歓喜の状態にあることがその状態にある人の人格が慈悲喜捨の四無量心なのでしょうか。そうであるならば、なぜ、原始仏典のブッダは、仏弟子サンガーマジ(阿羅漢・ダンマの直接体験者)のもとへ元妻子が貧しく助けを求めてきたとき、その弟子が解脱の境地を優先し、助けをもとめてきた妻子を見捨てたことを賞賛するというような冷酷なことを平気でするのでしょうか(ご存知のように、玉城康四郎氏の著書のなかで、その残酷性を指摘されている)。彼は如来と一体となり、歓喜の境地に住していたでしょう。そして、それを人にも勧めているのでしょう。その幸福を人の目指すべき最高の幸福としている。そのためなら、そのほかのことは一切を犠牲にしようとしているのでしょうか。自身の幸福のために、その妻子を犠牲にしているのではないでしょうか。如来と一体となるとき、その状態は確かに、如来の慈悲喜捨の四無量心となります。しかし、その状態は如来がそのようであるのであり、決して「私」がそのようであるわけではありません。如来の働きの状態にいるとき、その働きは常にその働きのままでいることを求めます。そのため、その状態にある者を如来は生贄として求めることになります。如来がそこに居るには、その修行者を生贄として、彼を支配し、そこにとどめようとします。そればかりではなく、その修行者が生きていくために、そのほかの修行者や在家の支援者に供養を求めます。如来は人間に対して、生贄を求めることは実際のことです。しかし、この場合、妻子の命を脅かすほどの生贄を強制しています。そして、それを賞賛しています。何とも恐ろしいことではないでしょうか。生贄を貪り食っているかのようです。慈悲とは反対の、恐ろしい残虐さではないでしょうか。
 如来の状態とは確かに、慈悲です。まったく、残酷とはまっ反対です。そうであっても、その残酷さを発揮しているのです。そのことを見ようとしないとき、善いものばかりに舞い上がって、その影を増大させることになってしまわないのでしょうか。助けを求めに来た妻子に何の罪があるのでしょうか。助けを求めるのは当然ではないでしょうか。それは魔であると退けるのでしょうか。如来の状態を保つことを妨害するものは、魔であると勝手に見做しているのでしょうか。自身が魔となり、おそろしい残酷さを表していることにはならないのでしょうか。慈住に住する、四無量心の状態でいることで、と思っているかもしれません。如来の状態が魔でもあることを見ないと、魔は極端な働きとなって現れてしまうことにはならないのでしょうか。如来の魔の側面をなくそうとすることは、現実的なことなのでしょうか。それが可能であるかどうかは私にはわからない。大乗経典は、報身仏となることがその実現と説明する。しかし、そのことは、われわれにとって、ほとんど無縁に近いほどのことではないでしょうか。われわれは現実に対処することが求められている。まず、われわれにできることは、その魔の働きを知って、極端なことにならないようにしていくことしかできないのではないでしょうか。ユング分析家のフランツ氏が善ばかりに夢中になって、悪を増大させることになってしまうようではいけないと述べている。そのことが、仏道を学ぶ者にとって、きわめて大事なことであるといえるのではないでしょうか。特に、如来との一体化は、その危険が最も大きいといえるのではないでしょうか。

 その妻子は、原始仏典のブッダに対して、魔であること、頼りなく、現実に生きていくことの辛さを突きつけているのにもかかわらず、それを拒否することにはなっていないでしょうか。彼は、強者でありながらも、弱者を見捨ててはいないでしょうか。

 上へ上へと舞い上がるカステラートと地に横たわる貧しい若者。誇大的なアマテラスとそれを補償するスサノオ。貧しい若者も見捨てられたし、スサノオも見捨てられた。両者の行動は別であるけれど、「見捨てられ」は共通しているようです。

 老松克博著『スサノオ神話でよむ日本人』では、「誇大的なあり方に対して、否認された見捨てられた感、喪失感を突きつける-それがスサノオの流儀だ。」とあります。このことをブッダのとった冷酷な切捨ての行動についても当てはまることになるでしょう。如来はあらゆるものを慈しむとブッダは説いているにもかかわらず、弟子の妻子を冷酷に切り捨てるという残酷さをあらわしていることを全く無視し、弟子が如来と一体となることを最優先したことのみを見て評価していることにはなりはしないのでしょうか。如来と一体となることを優先し、そのほかの都合の悪いことは見ないことになってしまってはいないのでしょうか。慈しみがないこと、冷酷であること、利己的であることの事実を弟子の妻子によって突きつけられていることはなっていないのでしょうか。それにもかかわらず、ブッダは、そのありのままを突きつけるスサノオ的な事態が生じているのにもかかわらず、彼はそれを否認してしまってはいないのでしょうか。
 この弟子の妻子は『法華経』の竜女の役割を担っていたといえるかもしれません。『法華経』の舎利弗が竜女によって、ダンマの相続者であることが否定されて、舎利弗はありのままの事実を受け入れることができましたが、ブッダはそれを受け入れることができず、否認してしまってはいないのでしょうか。

 私は、ここで、原始仏典のブッダを悪く言いって、貶めようとしているわけではあません。
 原始仏典の価値も、私がどうこういうものではなく、それを学ぶ価値が高いことには変わりがないでしょう。私は、ブッダを貶めることが目的としているのではなく、仏道を学ぶ側がそのような問題に陥らないためにも、誇大さと影の否認の問題について知っておく必要があるということがいいたいのです。

(5年まえに書いたもの)
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プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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