スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

陀羅尼 2

(前回の続き)

〈共時的出来事9 牛頭天王〉
 私は最近、柳田國男の本をたまたまパッと開いたところに牛頭天王の文字が目に入った。わざわざ共時的な現象を期待して本を開いたわけではなく(私はいままで、それを期待して行ったことはない。例外は易経によって占うときだけです)、驚く。先の恐ろしい鬼女と同じように、自らの存在をアピールしているかのよう。

森雅秀著『インド密教の仏たち』には、七母神、恐ろしい少年神、文殊、ヤマーンタカ、不動明王の従者である制咤迦童子の関連について説明されています。関心のある方は参照してください。そのなかで、特に印象深いのは、ベンガル地方から出土したパーラ朝期の文殊が左右の脇持がヤマーンタカに比定できる忿怒形の像と『華厳経』入法界品の主人公である善財童子の像となっていることを挙げ、童子の若々しさと恐ろしさの二面を持つことを指摘していることです。日本の密教に興味を持っている人なら、ご存知のことでしょうが、ヤマーンタカとは大威徳明王のことであり、文殊菩薩の忿怒身とされています。『華厳経』入法界品は、善財童子の普賢行を身につけるために、求道遍歴の道程を説いているようです。恥ずかしいことですが、私はまだ読んでいません。求道者がわざわざ童子であるのは、おそらくひたすら謙虚になって道を学ぼうとする態度が重要であることを表しているのでしょう。善財童子は五十三人の師を次々と訪ねていくようですが、その最初に文殊であり、最後に普賢菩薩に会うことになるようです。おそらく最後に普賢菩薩に会い、善財童子は自立するのでしょう。

私はこの経典は読んでいないので何ともいえませんので、ここでは、いままで見てきた『法華経』の相続者となることに当てはめて考えてみることにします。仏道はダンマの体感を根本とすることは大原則です。この体験は母胎回帰でもあり、主客未分化の状態に戻ることでもあります。このことは玉城康四郎氏がいうカララの状態(胎内のひとかたまり)一心四念処の心念処となることで、解脱の可能性が生じます。解脱が法念処ということになります。心念処は深いトランスの状態といえるかもしれません。このことはそれほど難しいことではないでしょう。しかし、次の法念処となるとある意味困難となります。それはある種の生きながらの死の体験であるため、どうしても避けてしまうことあるでしょう。その体験をすることは死と再生のイニシエーションであるといえます。そのために一生涯かかることもあるようです(おそらく個人差があるのでしょう)。しかし、それを一度体験しただけでは、玉城康四郎のいう終地ですら、はるかにほど遠いことになってしまいます。終地は常に、解脱の状態にとどまれるようにならなければならないからです。一度の解脱の体験に非常な困難を感じる人にとって、それは途方もない困難さに感じてしまいます。しかし、実際は、適切に学んでいくことができれば、誰でも可能となるはずと玉城康四郎はいいます。その極めて困難に感じることに取り組み、克服していくことは、やはりイニシエーションということができるでしょう。それまでに、何度もくり返し、死と再生の体験であるダンマの顕現を得ていかなければならないことも生じてくるでしょう(それは一概とはいえないようで、個人差があるようです)。このプロセスだけでも、相当なイニシエーションといえるでしょうが、終地を何とか実現したとしても、それだけでは、大乗の考える仏道者の自立ということにはならないでしょう。さらに、焼身供養のイニシエーションを通過しなければならないからです。

イニシエーションを通過していくだけの自我の強さがないとき、自立することない状態にとどまり続けることになってしまうとユング心理学はいいます。永遠の少年のあり方となってしまうのです。それまでの過程にあれば、大人になれない少年であることの自覚を必要とします。そのことは先の三像に当てはまることになるでしょう。

 ヤマーンタカとはヤマを殺す者を意味し、ヤマとは閻魔のことで、冥界の主です。死の神を殺す者から輪廻からの脱出を意味すると解釈することもできますが、死の神そのものを表していることを決して見過ごしてはならないでしょう。ダンマの顕現を得て、阿羅漢になることは、『法華経』では、三界からの脱出と説き、それを原始仏典では悟りと説いたけれども、実は方便であり、本来の悟りとは、報身仏となることが真の悟りで、それしかないと説明します。

終地の禅定である無生法忍の悟りも、それは仏道の根本とする悟りではあるけれども、如来の悟りと比較すれば、比べようもないほどの差があると説明します。まずは、仏道者として一人前を意味する『法華経』の相続者となるように学ぶべきであると説くのです。

 ダンマの顕現の体験を得たとき、死を克服し、輪廻から脱出したと自覚が生じます。このことは原始仏典の阿羅漢が悟りを得たときのその自覚の表明であり、その体験する者の共通する自覚として経典では、定型化しているものです。しかし、それは『法華経』の示す道標を知らず、または、無視することになれば、その体験によって自らを導師と考え、智慧があり、利他を行えると考え、誇大な妄想を引き起こすことになります。そうなれば、否定的なヤマーンタカが意識されずに、布置されてしまいます。それはますます増大することになるでしょう。自らのイニシエートすることから離れ、イニシエートするだけの技量がないにもかかわらず、きわめて危険なイニシエーションを人に課すことになってしまうでしょう。人を供犠することで、聖なるものの体験を自らとその周囲の者を味わいさせることになるかもしれませんが、その仕方はきわめて非倫理的であり、利己的で、病的であるといわなければならないことは誰の目から見ても明らかなことです。このことは、ある特定の集団や教団に対していっているのではなく、われわれ人類史上において、このような恐ろしい儀式は世界の各地で存在したという事実について対してのことです。聖なるものの体験自体が危険な側面があるのです。危険だからといって、それを過剰に避けることも適切ではありません。それを過剰に否認、無視すれば、われわれに対して凄まじい破壊をもたらすために襲ってくることもありえます。われわれができることは適切なつながり持っていることが重要となるでしょう。それが過剰な破壊をもたらさないような祀り方をしなければならないのです。それを行うには、われわれの自我の姿勢が重要となるでしょう。

老松克博氏は『アクティヴ・イマジネーション』で、「無意識の溢れるところには自我をあらしめなければならない」と述べています。このことはきわめて重要なことであるでしょう。イニシエーションを経験するには、それなりの自我の存在が不可欠であることがいえるでしょう。適切な倫理と合理性が求められることになるでしょう。ただし、その自我は過剰に倫理的であったり、合理的であったりしてもならず、自我の死の体験を極端に避けようとすることも相応しいことではないことにもなります。自我には、強さと柔軟さとバランス感覚が必要になるのでしょう。その象徴が文殊ということになるでしょう。適切な仕方で学ぶには、文殊の存在が不可欠なことになるでしょう。善財童子は文殊に支えられて、イニシエートされ続け、仏道者として一人前となっていくのでしょう。アクティヴ・イマジネーションが専門家の存在が不可欠であると述べているように、仏道の学びも法師の存在が不可欠であるということができるでしょう。法師とは、第九地の菩薩であり、金色の身体を獲得した者のことです。

現実に活動しておられる仏道の指導者の方々が自らは、少年に過ぎないという自覚がなければ、自他共に、否定的なヤマーンタカを無自覚に招き、凶悪にさせてしまうことにもなりかねないのではないでしょうか。現実に生じた事件に対して、批判し、自らの正当性を主張することは、いま現実に取り組まなければならない足下の問題を気づかず、自分はしっかりとできている勝手に思い込んでいることにはなってはいないでしょうか。アマテラス的となり、破壊的なスサノオを招くことにはなってはいないでしょうか。フォン・フランツ氏がいうように、間接的に手を貸しているにもかかわらず、知らなかったと言い訳をするようではやはりダメなことになってしまうでしょう。

河合隼雄著『影の現象学』では、「永遠の少年たちは、自分の影を意識しないまま、その影を両親や社会に投影し、ひたすら正しく、幸福に生きているが、それにしても、われわれはいつかは自分の影の存在を自覚しなければならない。」とあります。

現代の宗教やオカルト的なことに関心を持つ若者の暴走は永遠少年のあり方であるという批判は正しいことかもしれません。しかし、それを批判する宗教者のあり方はどうなっているのでしょうか。社会に適応し、高い地位を得て、ひたすら正しく、幸福に生きているかもしれません。その若者の暴走を眉をひそめ、伝統を権威に自らを正当化する姿は、社会に要請されたペルソナと同一化し、そのペルソナの役割を果たすことが中心となっているように思えてしまいます。その役割は重要であることはもちろんなことでしょうが、経典が説く仏道者として成人することを実現しているとは全く考えられません。仏道者として成人せず、永遠の少年のあり方にとどまる若者を批判することは真摯に仏道を求める若者を仏道者として成人させていくことは不可能であるでしょう。社会に不適応であることは決して望ましいことではありません。社会から要請された仏道者のペルソナの役割を果たすことは重要であり、その働きによって、その若者たちは社会に適応していくこともあるでしょう。それは望ましいことであるでしょう。私はその価値を尊重しています。しかし、そのことが絶対的な価値と見做されることは適当ではないと思います。そのペルソナは陀羅尼と関係していないからです。そのようなペルソナの補償として若者の暴走が起きている一面が存在するのではないかと素人的に考えてしまいます。

陀羅尼は、如来のみを意味するのではなく、金剛力士、普賢菩薩も意味を含むし、鬼子母神のようなグレートマザーや、恐ろしい鬼女の意味も含むでしょう。そばかりではなく、さまざまな神々も含むことになるでしょう。さまざまな心の働きを含むのでしょう。そのさまざまなものとかかわっていくには意識が不可欠であるでしょう。

老松克博氏は『アクティヴ・イマジネーション』のなかで、「夢にしても、イメージにしても、基本的にことこどく内的な過程である以上、そこで経験されることは厳密には先取りにすぎない」といい、「この点をめぐる仕事は、いずれ自我自身が引き受けなければならなくなるであろう。そのために類似の状況にくり返し遭遇することになるはずである。」といっています。

そのことから、私の先に挙げた、禅定も、夢も、象徴的な出来事も、現実化の前の先取りとして理解することができるでしょう。『法華経』に登場する仏道者も先取りとしての体験として生じている事例として理解できるでしょう。

(以上、5年まえに書いたもの)

いま読むと、だいぶ真面目すぎる。一人前の仏道者になりたいと躍起になっていたのだと思う。西洋的価値観の自立にこだわるのはよくない気もする。
現場の中で、ゆったりと学んでいくのが大事ではないかという気がする。
現場を知らない私が言うのも変ですが。

先の法華経の解説は、結構、適切ではないかと、いまでも、思う。
玉城康四郎の仏教を一歩進めたものとして書いた。素人の無遠慮さで。
私はその方向で、現代に即した新しい仏道を、ここからはじめるべきだと強く思っている。
これは、伝統的な宗派仏教をある意味で否定している。というより、それらにこだわらない。ダンマの顕現という、仏道の根本である、体験によってこそ、確かめられ、探究されるべきもの。大乗経典はその体験によって、学んでいく必要があるだろう。そして、さらに、その学びはいずれ、経典をも超えていくだろう。それは、この道を進む人たちによってこそ、可能となるだろう。
スポンサーサイト
プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
カレンダー
07 | 2009/08 | 09
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -
FC2カウンター
リンク
QRコード
QR
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

検索フォーム
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。