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結界

結界

 河合隼雄著『心理療法序説』によると、儀式は神に接近していける意味と、神との直接的な接触による危険を避ける意味との両面があるといいます。この両面について考えることは仏道の儀礼を学ぶ上でも重要なものと考えられます。仏教の儀礼もその例外ではないでしょう。ここでは、密教の儀礼の基本である十八道を挙げて、簡単に考察してみることにします。

 理解の便宜のために、その構成を簡略して示すと次のようになります。護身、結界、荘厳道場、勧請、結護、供養、念誦ということになります。この次第の最後にある念誦は本尊加持であり、如来と一体となることの意味ですから、この次第は如来と一体となる過程を表していることになります。如来の加持力が次第に行者の身体に浸透していく過程です。

このなかで注目すべきは、荘厳道場のところです。
如来の働きを体感することで、その世界が浄土となることを表しています。護身において如来を体感し、次第にそれが深まっていく。その道場は浄土となっていくことを表しているのでしょう。

仏を迎える勧請は、如来の働きの体感をますます深めていくことを表しています。供養は浄土の住人が仏に供養の品を具えることのあり方と同じであるでしょうから、浄土の禅定状態を体感することを表しているでしょう。

最後の本尊加持は如来と一体となることでありますが、これも必ずしも、無生法忍を表しているのではなく、ひたすら、如来の一体化を深め続けていくことを表していると解するべきでしょう。

入我我入観、正念誦、字輪観も、如来との一体感を象徴的な表現によって表しているのであり、本来は如来との一体の禅定状態の意味であるので、その観想にとどまっていると、空見となる危険があります。頭の中で仏をイメージし、それと一体となろうとすることは適切な仕方で学ばないと、全く仏道を否定してしまうことになってしまいます。イメージすることは悪いことではなく、それどころか観想行は如来の働きを体感するためのひとつの重要な手立てであるのですから、適切に学べば、有効な手段であるでしょう。

真言密教の字輪観ア、バ、ラ、カ、キャの梵字を順次に観想するようですが、本来の意味は地、水、火、風、空という粗大から微細へ至る禅定の深まりの意味であり、「空」の境地の実現を意味するでしょう。「空」の境地がそのままの身体へと実現されていることがア字であるというのでしょう。

ア字は法身であり、法身即衆生であり、衆生とは切り離すことのできない法身であり、如来蔵のことを表している。如来と一体となった禅定状態であり、一切は本来、法身であるということを表しているのでしょう。そのことを自らの身体によって体感することが本当の意味であるでしょう。

 以上のように、如来の働きを体感していく過程であることになるのですから、その結界の意味は、如来の働きを体感する基本の実現を表していると考えられます。如来の働きを体感することの基本ができていないと、結界とはいえないということができるでしょう。では、ただ、如来の働きを体感することができれば、結界をすることができたということになるでしょうか。先にもくり返し、強調していたように、禅定は現状を検討し、反省する意識がそのための不可欠な要素であることになります。よって、金剛薩埵とは如来の働きと一体となる者を意味するだけでなく、現実を検討する自我の機能も表していると述べたことがこの結界についても当てはまることになります。

 そのためでしょうか、この結界法の構成のなかに、発菩提心、三摩耶戒、大金剛輪という金剛薩埵に関する真言があることは興味深いことです。その真言を唱えた後に、地面に金剛の杭を打ち込むのです。地盤を固め、杭を打つのです。しっかりと足場を固めなければ、その上に成り立つ禅定は揺らいでしまい、下手をすれば、倒壊してしまうというのでしょう。自我の適切な機能がなければ、禅定は適切に学べないというのでしょう。

もうひとつ重要なことは、発心です。発心することができなければ、その禅定は阿羅漢や独覚と同じとなってしまうというのでしょう。如来と一体となれば、成仏であると見做してしまうことになってしまいます。発心するからこそ、その禅定は菩薩の修行となるでしょう。そのため、次の真言である三摩耶戒は金剛薩埵の真言となっているのでしょう。ただし、これは菩薩となったという意味であり、普賢行を行える金剛薩埵となったことを表しているのではないことに注意しなければならないでしょう。三摩耶戒は、地に足がついた自我機能を表していて、密教の相続者である金剛薩埵が自分自身であると自認したり、あるいは、それと一体化して、自我肥大となり、現実の自分を見失うことになったりすることを意味しないのです。三摩耶戒の真言を唱え、金剛薩埵になったつもりでいることとは全く違うことになるのです。この真言の意味を知らずにいれば、結界を形成することはできないことになります。その結界は魔界が猛威を振るうことになり、知らず知らずのうちに魔に支配されてしまいかねないでしょう。自らは魔と無縁であり、自分こそ正統であると考える妄想に陥ってしまいます。仏道が最大の罪とすることに陥ってしまうのです。

オダージンク著『瞑想とユング心理学』では、個人的な無意識と超個人的な無意識との間をつなぐ運び役となっているのが自我であるが、そのつながりがぷっつりと切れたならば、精神病が起こるかもしれないと警告し、深刻な瞑想修行をする人々は、強力な自我構造を発達させて、現実との強固のつながりを保っていたほうがよいといっています。たとえば、僧が経験しているような長期の身体的心理的苦行は、弾力のあるたくましい自我構造の発達をもたらすといっています。(p.75)

 苦行が強固な自我形成に役立つといいますが、壮絶な苦行をする人が現実検討の力が脆弱であったり、慢心を抱く傾向があったりする場合があることについては、どうなのでしょうかと強く疑問を感じてしまいます。ともかく、ある程度の自我の強さであること必要であることは間違いなさそうです。そこに、何らかの工夫が必要であるかもしれません。

(5年まえに書いたもの。それを少し訂正しました。)

自我の強さがどの程度必要であるかは私にはわかりません。というのは、私自身がそれが強いとはいえないでしょうから。
この道を進む人たちによって、検討していく必要があるのではないでしょうか。
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プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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