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阿羅漢と大乗の如来とはまったく別です

きのう、仏教の勉強会に参加しました。

大変残念なことに、またしても、原始仏典の阿羅漢と大乗の仏と同じと考えて、大乗を講義していました。
それを聞いている参加者からも、異論がでず、なるほどと頷いていました。
大変困ったことですが、この刷り込みからは、容易に抜け出せないのではないかと感じました。
私はそこで、異見することはしませんでした。既に、その会で、私の見解は発表済みですから…。

『勝鬘経』は、はっきりと、声聞の阿羅漢と大乗の如来とはまったく別であると説いています。
これを無視してしまえば、大乗経典を読んでいても、その核心から遠く離れてしまいます。
大乗経典を読みながらも、原始仏典の阿羅漢を目指すのであれば、まったく発心していることにはなりません。
発心は、経典が教えているように、大乗の報身の如来となることを目指すことです。阿羅漢ではまったくありません。
これは、絶対に間違ってはいけないのですが、きわめて残念なことに理解されていない人が多いようです。本当にがっかりです。
法華経は仏乗は難信難解であるというように、現在の世も、それがあてはまってしまうのでしょうか。
仏教の知識はなくても、純粋に仏を礼拝している人のほうが、比較にならないほど、如来の心に適っていると改めて思いました。

残念至極です。

如来をひたすら礼拝する。本当は、それこそ大事であると思います。

悟りを得ようとするばかりに、間違って理解すれば、仏乗から離れるばかりです。
みなさん、どうでしょうか。そうではないでしょうか?
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プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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