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まずは発心を

毎月参加していた仏教の勉強会が、今週あったのだが、お休みした。そのわけは以前のエントリーで書いたように、参加されている方たちの持つ思いと私のそれとでは大分違いがあって、そのギャップにとても耐えられないと思ったからである。もうやめてしまうのか、またそれに参加するかは、いまのところ、決めていない。

玉城仏教を本気で学ぼうとするのであれば、少なくとも、しっかりと、玉城康四郎の本は読んで、ある程度、その内容を理解していることが必要だろう。しかし、私の参加した勉強会では、まったくそれができていなかった。あまりにも酷すぎた。それで、玉城の遺志を継ごうとはまったく話にならない。

そういうおまえはどうなんだということになるが、人に威張れる立場にはいない。私は玉城仏教を学問的に語ることなどできないし、また、そのつもりもないが、少なくても、私は玉城の示した仏道(実践という意味で)については、それを実践し、継承し、それに留まらず、その不備を指摘し、批判し、それを乗り越え、さらに先へ進んでいこうと探究してきたつもりである。もちろん、私の勝手な解釈ではあるだろうが、仏道の実態を無視した、単なる頭の中でこねくり回すような観念的な作業ではなく、終地の実態について、まずは徹底して理解し、そこから、さらに進むべき道は何であるかを大乗経典や臨床心理学の知見を借りて、探った。その探究の結果は、このブログで既に紹介した。それは仏道・仏乗とは何であるのかという探究と同じであった。だから、私は仏乗を説くのである。玉城康四郎も、最晩年、終地を仏乗であるといった。終地について、十分に探究できる時間がなく、この世から去った。私はその玉城の遺志を継ごうと思って、その探究をした。だから、私は終地以上の道程について説いたのである。

玉城仏教の進展は、この方向にしかないと私は強く思っている。

ダンマの相続者という言葉は曲者である。私は以前、玉城のいうダンマの相続者は、『法華経』のいうダンマの相続者とは同じではないと説明した。

もちろん、私は『法華経』のいう、<『法華経』の相続者>に実際になることは、相当な困難であることを理解している。
われわれは、金色の身体の実現(もちろん、物理的な意味ではない)は無理があるとしても、少なくても、終地を実現し、かつ、発心すること、つまり、それは仏乗に乗ることは、誰でもできるはずである。まずは、それを目指して学びを開始することが玉城仏教を継承しようとする人たちは必要であると私はおもっている。

だから、まずは、発心することは何より大事である。
終地を最上と理解して、それを目指すこと心を起こすことはまったく発心ではない。終地を実現すれば、如実知見であるとか、無我となり、智慧が働くとか、如来そのものが思惟するとか、そのままが利他であるとか、正しい行為であるとか、そんなことはまっくありえない。終地の実態からいえば、そうなのである。終地を理想や願望によって見てはならない。現実を見なければならない。

終地に達しても、その人のままである。これが現実である。
「普通の人より少しは智慧が働くのではないか」とか、「無明・業熟体のために間違いを犯すのであって、ダンマが働いて、その影響を受けなければ、正しい行為ができるのではないか」とか、という考えも、まったくダメである。そんなこともありえない。終地の実態はそうではない。その人のままであることよりほかないのである。これを繰り返し説明しても、きわめて残念なことであるが、それを受け入れようとしない人が大半である。自分の願望でそれを見てしまうからだろう。

終地を実現しても、その人のまま。ごく普通の人間のまま。その人のままに、仏道を歩んでいくこと。はるか彼方の究極の完成へと向かって。それが仏乗の乗ることである。

だから、私は仏乗を説く。
人にも仏乗に乗ることを勧める。
仏乗に乗るためにも、発心することが不可欠である。
だから、発心は、大乗経典に登場する阿弥陀仏や釈迦如来などの報身仏になることを目指す心を起こすことであると私は説明する。

終地を最上の境地であるとか、原始仏典のブッダを現実であり、大乗経典に登場する仏は物語や象徴の意味で、原始仏典のブッダをそのように表現しているのにすぎないとか、は、まったく見当はずれで、大乗を壊す言動といえるほどのことである。

仏教についてほとんど知らない仏教の信者が仏を礼拝している対象は、超現実的な、大乗の仏である。
変に知識を得て、見当はずれの理解をすれば、仏道から大きく逸れてしまう。そんなことはしてはならないだろう。

私はいままで、玉城仏教のファンの人たちの多くに、そのような理解をするのを見てきた。あまりにも残念なことである。
そのような誤りを捨てて、適切に発心をすべきである。まずは、それが何より必要である。仏乗に乗るために。
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プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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