力ずくの【任せる】って、かなり変じゃない?

何度も同じことをいうと、とても疲れる。
また、それを厭わず、言おう。

【如来の働きに従う】ことの意味は、いい直せば、如来の働きとおりにそのままにしておくこと。如来の働きを妨げないで、そのままにしておくこと、である。

【如来の独り働き】のままに従う、順応することである。すべて如来に任せることである。その任せるとは、如来の働くがままにしておくこと。そのままにしておくことを意味する。
ある人が「任せることすら忘れはてている」と言っているが、まったく変なことである。この言葉の意味するところを検討してみると、以下のようになるだろう。
【任せる】ということが忘れているというのだろうから、その忘れるの主語は「私」であるだろうから、その「私」が【任せる】ということが忘れてしまっていることを意味するだろう。そうであるから、この【任せる】という言葉には、その人自身の能動的な働きがある意味で使われていることが推察できる。よって、そのような能動的な【任せる】ことが忘れてしまっているというのだから、訳がわからない。玉城康四郎の説明する禅定の事態とは合わないことになる。きわめて変なことになる。

【任せる】とは、力ずくでそのようにするのではなく、【まったく何もしない】【無為】であるからこそ、【如来は自由自在に働いてくれる】のである。

そのゆえ、先の人のことばは、その意味とは逆さまであると私には解釈できる。力ずくの任せることが忘れたということは、力ずくを任せることをやめたということだけにすぎない。

禅定はまず、ごくごく初歩の段階で、第三禅の楽が大切なのである。
力ずくでは【楽】とはならないだろう。

だから、きわめて変であるというのである。

一見、その人のことばは玉城康四郎の説明する禅定と同じであるかのように見えてしまうようであるが、私にはかなり変であるように感じる。

終地の、不動の確信についても、そうである。確信するとは誰が確信するのか。【私】であるに決まっている。確信を辞書で調べてみると、「固く信じて疑わないこと。また、固い信念」となっている。「固く信じて疑わないこと。また、固い信念」はダンマの顕現の体験にはまったく無関係なことである。というより、それを反対に邪魔するものでもある。「不動の確信を得た」と宣言する人はきわめておかしなことを言っている。もし、事実、その体験を得ているとしても、そのような宣言するならば、その人は自我肥大をひきおこしていると、思わざるを得ない。

【無為自然】の【如来の独り働き】の状態は、【ダンマ・如来が業熟体に通徹してやむことがない】という事態である。
われわれが知ろうと知るまいと、そのようになっているのである。
玉城もそうように説いていることはご存知であろう。

この実現が無生法忍なのである。
これは、この身のままに浄土にいることを意味する。
如来が中心となり、光明を放っている。その世界は涅槃となっているのである。
この事態は大乗経典が説く浄土のありさまに似ている。一方は禅定で体験される涅槃、一方は、それをイメージとして描かれた世界。

ちなみに、私は大乗の信者であるので、死後もそのような世界があって、そこに生まれるのだと信じている(ここでの信じるは、もちろん、自我的な行為である。そうであったらいいなと思っている。笑)

大乗はわれわれ衆生その信仰の実践によって、浄土に生まれることができると説いている。それは大乗の中で、きわめて大事な教えである。

にもかかわらず、涅槃のみがあって、死後の世界はないとか、大乗の説く浄土は方便で、原始仏典の説く涅槃が本物であるとか、むちゃくちゃなことを説く人がいる。本当にバカげたことだ。こんな人たちは相手にしない。勝手にしなさい。

阿弥陀仏の光明は地獄の底まで到り届いている。地獄の底で、しっかりと手のひらで支えている。
また、地獄の底よりダンマが吹き上がってくるのである。
私のどん底、大地のどん底、宇宙のどん底から、ダンマが吹き上がってくるのである。吹き上がって、貫き、上へ、上へと向かっていく。これが無生法忍である。

玉城康四郎は地獄と極楽は紙一重の、裏と表であるといっている。
終地の禅定の事態は、そのようである。

この禅定がしっかりと身につけば、終地であるといえるだろう。
そして、さらに、日常においても、心が比較的に静かであれば、如来の働きの状態でいることかできる。それを玉城康四郎は【如来と二人連れ】といったのである。

仏道の信仰者として、できるだけ、その状態であるようにすることが求められるだろう。その状態である【私】は当然、もとの変わらぬ【私】にほかならない。聖者になれるわけでもなく、智慧が働くわけでもなく、如実知見となるわけでもなく、【まったく変わらぬ私のまま】なのである。これが終地の実態である。それを無視してはならない。

仏道とは何か。それは、如来と二人連れとなって、その人はその人のままに歩むことである。それが仏道の根本であり、基本である。そして、それしかない、一仏乗なのである。

その仏道の歩みは、途方もない時間をかけて、究極の完成へと向かっていく。福徳を集めていく。功徳で身を飾るのである。それがついに完成したとき、大乗の言う成仏、法身の実現、報身の実現、仏智の実現、浄土の建立となるのである。

この実現を目指す心を起こすことが発心なのであって、終地の悟りを得ることを目指すことが発心なのではまったくない。発心を間違って教えている人たちがほとんとであるようなので、世も末であると思ってしまう。

私は仏乗の信仰者であるので、他の人たちにも仏乗を勧める。
何より大事なのは、発心を正しくすることである。
ダンマの顕現を得ることより、比較にならないほど大事であると経典はいっている。また、終地の禅定を得ることよりも、ダンマの顕現を得ていなくても、正しく発心することのほうが、比較にならないほど優れていると経典は説いているのである。

仏像を移行対象(ウィニコット)であるといって、仏像礼拝を低く見るようなことをいう人の気が知れない。どうぞ、ご勝手に、気づきに専念してください。その気づきのおかげで心平安に暮すがよい。それは玉城康四郎の言うダンマの顕現とはまったく違うことを強く言っておく。

仏像を向こう側に、超越的な如来に対し、礼拝することはとても大事なことである。それは如来の御心にかなっている。
ごく普通の純粋な信仰を大切にすべきである。
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プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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