初歩こそ大事、そこから着実に学んでいく。

前回のエントリーでは、玉城康四郎の以下のことばを紹介した。

「皆さんもご経験があると思いますが、何かの拍子に、説明はつかぬけれども、ずっとこころの奥のほうで何ともいえない不思議な気持ちが起こる。何ともいいようのない悦びがずっと体の奥のほうで起こってくることをご経験になることがあると思います。」(玉城康四郎『ダンマの顕現』より)

このような誰しも経験がある【ずっとこころの奥のほうで何ともいえない不思議な気持ち】【何ともいいようのない悦びがずっと体の奥のほうで起こってくること】を大事にし、それをさらに深めていくと、ダンマが顕現し、ダンマに包まれ、さらには、通徹するようになる。
われわれがこれを体で学んでいくことが仏道を学ぶ上での不可欠な根本であると玉城康四郎は何度も力説した。

はじめてのダンマの顕現の体験が、強烈、あるいは、衝撃的な体験であるとして、それと比較して、先のわれわれが経験する【ずっとこころの奥のほうで何ともいえない不思議な気持ち】【何ともいいようのない悦びがずっと体の奥のほうで起こってくること】は、そのような強さをもったものではないとしても、玉城のいうように、【ダンマを伴うている悦び】なのである。
ダンマの顕現に到らない段階であったとしても、常にダンマは働いている。
それをわれわれは気づかないだけである。
それを気づくことがダンマの体験であると玉城はいっている。
われわれが三昧に入るとき、自力で三昧に入ることはできない。必ず、如来の力、如来の本願力によって、三昧に入るのだと玉城は力説した。
玉城が指摘した、誰しも経験がある【ずっとこころの奥のほうで何ともいえない不思議な気持ち】【何ともいいようのない悦びがずっと体の奥のほうで起こってくること】がまさしく、如来の力、如来の本願力なのである。
それよって、われわれは【何とも譬えようのない悦び】が心の奥底、からだの奥底から湧いてくるのである。

その【何とも言えない心の奥の悦び】を大事にすることからはじめることが、玉城のいう終地に到る上での出発点であり、その到るまでのプロセスにおいても、常に大事であり、さらに、終地に至っても、大事なものである。

【何とも言えない心の奥の悦び】を繰り返し、体で学び、染み付いていくように習熟していくように、自身で工夫して、探求することが必要である。
しかし、結果を得ようと、焦ったり、何かすばらしい体験を得たとしても、それを過大に評価し、自らそれを得たのだと自惚れてはならない。それは単なる体験でしかない。
ただひたすら、体で学びつづけていくことこそが大事なのである。
終地の実現という結果を得ることは大事には違いないが、それに到るプロセスの学びを軽視してもいけない。
日々の勤行における【何とも譬えようのない悦び】を常に大事にして学び続けることである。
それなしに、ダンマの顕現を何度も経験しても、大乗の言う魔の憑依に陥る危険が大きい。
目覚めを得たとか、解脱を得たというは、ある一面、かなり変なことばである。
終地とは、何度も言うように、その人のままに、如来と二人連れとなって、歩んでいくことである。
仏乗に乗って、はるかなる究極の完成へと向かっていくことである。
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プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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