いつも当ブログを訪れてくださるみなさん、ありがとうございます。
最近、とても忙しく、仏教に関する日記の更新ができませんでした。
今日は少し余裕ができましたので、少し書いてみたいと思います。
前にも書きましたが、忙しいと、つい、如来を忘れてしまう。お留守になってしまいますね。
これはみなさんも、日常で経験されることではないかと思います。
本当はそれではいけないのですが、現実の問題に取り組んでいるとついつい、いのちのふるさとを忘れがちになってしまいます。わたしも、冒頭で述べたように、最近とても忙しく、疲れが溜まっています。心身ともに疲れたという感じです。
疲れたときは、睡眠をできるだけとる事が大事だといわれていますね。
あと、息抜きも大事と。趣味、遊びでもよいみたいです。お酒も適量なら、役立つようですね。
私は家では、お酒は飲まないのがいつもの生活でしたが、最近は疲れが激しいので、発泡酒一缶だけ飲んでいます。
もっと飲みたいところですが、金欠で買えません(笑)。お酒を飲むと、とてもいいですね。体の力は抜けるし、睡眠も良く取れます。
睡眠というと、思い出すのが、玉城康四郎さんが睡眠最中はノンコントロールだという趣旨のことを述べていたことです。
ノンコントロール。いのちの本来の働きに委ねる。自分がコントロールして寝るのではなく、ノンコントロール下で休息している。これは禅定に通じると、たしか、述べられていたように思います。
ラマナ・マハルシは、三昧のことを自覚ある熟睡であると、その著書のなかで書かれてある。
これはとても核心を突いた言葉であると私はおもう。
みなさんも、経験があると思いますが、禅定、瞑想などをしているとき、とても眠くなるときがありますね。特に、疲れているときは、睡眠不足のときはそうなりますね。
坐禅修行で、眠気でうつらうつらしていたら、警策で叩かれそうですね。
私は、その場合は、そのまま横になって寝てしまうのがよいと思います。
そうすれば、深い睡眠が取れます。目覚めたとき、すっきりします。
おきてから、また瞑想すればよいと思います。
眠さと闘っているようでは、苦行であっても、ノンコントロールの学びとは逆になってしまいます。
何か、労働、仕事のように型にはめられて、それを実行するのが修行であるとは私は考えません。
熟睡を学ぶことが大事であると思います。
それは実際、熟睡しなければならないといっているのではなく、ラマナ・マハルシのいう自覚ある熟睡を学ぶ探究としてのヒントとなります。
禅定を行じて、眠くなっても一向に構いません。その眠さから学べばいいのです。
いま私が禅定に入るとする。そうすると、すぐさま眠くなると思います。
寝てしまっても良いのですが、できればねむらず、三昧の楽を味わいたいわけです。
そう思っても寝てしまうことが多いのですが。
すぐ眠くなるのは私だけではないと思うのですが。どうなんでしょうか。
現代社会はあまりにも忙しく、緊張することも多く、物事を解決するためにいろいろと頭脳を使わなければならないことはいっぱいあり、イライラすることがよくありますね。ストレス過剰な世の中なのだと思います。
そのような生活に生きる私たちは、なかなか、先の三昧を味わうこともできないこともなっている。
その点から、仏道実践を阻む生活環境であるといえるのではないでしょうか。
もう既に、このブログを書きつつ、おねむな感じとなっています。
しばらく、禅定を行ずることがないと、やはり、その技はさび付きます。
とはいえ、その基本が失われることはいまのところありません。
いまの状態を反省すると、昔のような、あの徹底した状態で日々過ごしたい。あの日に返りたいと思う気持ちが湧いてきます。
現実の生活の場では、すこしの時間が惜しい生活がいまのところ続いていますが、いま禅定を味わって思うことは、もう少し、時間を作って、禅定に入るべきではないかと反省する気持ちとなる。
尽十方無碍光如来。ノンコントロール。如来のひとり働き。
脳天からも、腕からも、体全体からダンマが放たれていく。
そうしているうちに、本当に眠くなってきた。もう寝ることにします。おやすみなさい。
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