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浄土とは

浄土って、本当に存在するのかな?
死んでみてからじゃないとわからない。行ってみないとわからない。そもそも、死んでも、たましいとなって、存続するの?って思う。

まぁ、私の場合、信仰として、存在するとは思っているし、死後もそこに生まれるだろうと思っている。とはいっても、そこに入れることが許されればだが。おまえは、行いが悪いから、ダメって、断られるかもしれない。

われわれはいま、生きている間に、浄土の体験はできると経典は教えている。
たしかに、そうだ。玉城康四郎のいうダンマの顕現はそれである。

原始仏典のいう涅槃も、大乗経典の言う浄土も、゛さっくりいってしまうと、同じだ。大乗経典は、原始仏典の涅槃は、小さい涅槃といい、大乗は大きい涅槃という。
両者はその質から言えば、同じである。
法華経では、声聞が仏国土のことをよく知っていなかったというよなことをいっているが、大乗の浄土は知らなかったということを意味するだう。

親鸞などの浄土教は、現世において往生するという。
親鸞の自然法爾は、玉城康四郎によると、第八地の不動の境地のことであるという。玉城康四郎の言う終地である。

無量寿経では、浄土に生まれたものは、蓮華の上に生まれるとある。
これは、われわれが仏道を実践によって確かめられる体験、つまり、ダンマの働きによって、その体験する禅定の世界が浄土になっていることと同じ。

無量寿経では、胎生往生といって、蓮華のつぼみの中に生まれ、そのなかである程度時を過ごすが、いずれ、その花が開いて、浄土の様子を見る。

これは、われわれが仏道の実践に相当するものは、行の実践によって、仏・如来に包まれて、安心している状態だろう。その状態はいずれ、ダンマが開いて、あるいは、貫いて、徹底する。その世界が浄土となっている。

浄土の楽とは第三禅の楽と同じであるという。
第三禅の楽はさらに進んで、三昧の実現となる。捨念清浄となる。浄土となる。
楽とは何か。それはダンマである。涅槃は何か。ダンマである。

つまり、ダンマの働きによって、体(身心一体、意生身、業熟体)に浸透し、深まっていく、ついに、徹底する。それが終地。

ダンマの体験を徹底し、習熟して、終地を実現しても、それを最上のものと誤認してしまうと、声聞のあり方にとどまってしまう。浄土に生まれたに過ぎない。如来へ成るには、ひたすら、修行するよりほかにない、業熟体は無量無辺であるから、それの報身とするためには、無量無辺の行が必要である、と気づき、その道へと進むこと。それが大乗の菩薩。

浄土に生まれたものは、その浄土において、途方もない時間をかけて、功徳を完成させて、仏となる。この仏とは、もちろん、原始仏典のブッタのことではなく、大乗の仏のことで、いわば、宇宙仏のことです。大乗の立場からは、原始仏典のブッダは単なる修行者にすぎない。宇宙仏ではもちろんない。人間、修行者である。

仏教はきわめて、シンプル。難しいことはいっていない。
難しいことをいう人は、その体験を知らないで、的外れなことをいい、人を惑わす。
きわめてシンプル。ダンマ・如来の体験。これが根本。行の実践とは、これ。
日ごろの勤行で、如来を実感すること。これのみ。

そうはいっても、死後もたましいが存在して、死後、極楽に行けるといいなって強く思う。そうであったら、本当にいいな。
その存在は確かめられないが、いま、われわれはこの場で、生きているままに、如来を体感し、浄土を体で知ることができる。これは確実なことだ。われわれはその気さえあれば、誰でも、それを身をもって、確かめることができる。
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プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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