スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

行道の実践

玉城康四郎先生は、誰でも、ブッダの教えに従って学べば、終地に達することができると強調する。先生は「私にもできたのだから、他の人にも可能である」という。

「う~ん、本当かな?玉城先生は天才であり、天才だからそれができた。凡人には無理なのでは?」という考えもある。「実際に実践していても、ダンマの顕現を得られない。まったく手がかりを掴めず、ほとんど無理に思える」という人もいると思う。

玉城先生は、ダンマの顕現は、木っ端微塵の大爆発のものといっている。
確かにそう。しかし、それにとらわれてしまい、その体験を得ようと必死になるのはかえって、それに逆行してしまう面もあると思う。それに必死になって取り組むことも大事で、その努力が報われて、実現することは事実。といっても、それだけが唯一の方法というわけでもないのも事実。

実際、自ら行じ、全人格体で探究していくよりほかない。

仮に「ダンマを実感することがまったくできない」という人がいるとする。
たとえ、そうであっても、行道を実践しているのだから、如来との関わりを持っていることに間違いない。いまは、実感することはできなくても、必ず、いつかは、自然と実感できるようになるはずと玉城先生は著書で述べている。無量寿経も蓮華のつぼみの中に生まれたとしても、時がたてば、そこから出られるといっている。両者は同じことを意味するだろう。

四禅の第三禅の楽は、極楽浄土の楽と同じであると経典はいう。
このことは、行道の実践に関し、きわめて大切なことを教えてくれている。
楽は三昧へと進み、ついに解脱(ダンマの顕現)に到る。
私見をいうと、解脱にこだわらず、三昧に留まることが何より大切であると思う。
三昧とは、玉城先生のいう「ひとかたまり」となること。一心になること。
原始仏典の四念処の心念処に相当する。心念処は自然と法念処(解脱・ダンマの顕現)に至る。玉城先生は心念処になることが大事であると著書で述べられている。

玉城先生は、禅定も念仏も同じであるという。
念仏の肝心は一心になること。それは三昧である。ついにそれは、光明が顕わになり、包まれる。
両者は同じ。

一心とは何か。楽とは何か。自身の体で探究していく。
過度な期待もせず、決め付けもせず、かといっても、いい加減にもならず、結果を得ようとあせらず、いらいらせず、リラックスして取り組む。かといって、だらしないことになりすぎてもいけない。
私見をいうと、心地よいと感じる方向へと進むようにするとよいと思う。

行道の選択は、玉城先生の言うように、自分にあったものを選べばよいと思う。
私もいろいろと試した。それを試すのはおもしろい。
禅や密教の実践は、師の指導を受けることが大事だという。やはり、そうした方がよいのではないかと思う。独習書も出ているので、そちらもありかもしれない。

行道は二つに大別できると思う。
便宜上、それらを
1.禅定門(坐禅など)
2.帰依門(念仏など)
としよう。
禅定門はことばのまま、坐禅(瞑想)。
帰依門は如来への帰依、信仰心によるもの。
どちらを選んでもいいし、あわせて学ぶのもいいかもしれない。
気持ちに素直に選ぶ、試すのがよいと思う。
どちらを選ぼうと、その先は同じです。

終地をめざして、学びが開始される。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
FC2カウンター
リンク
QRコード
QR
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

検索フォーム
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。