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理趣経、大楽

理趣経は大楽を説く。

大楽とは法身・ダンマです。

また、一切は本来、清浄であると説く。
清浄とは、ダンマ・法身である。
一切は本来、法身である。大乗経典の根本を説く。

貪り、怒り、愚かさの三毒は本来清浄。心は本来清浄。

有名な句に「男女交合の妙なる恍惚は、清浄なる菩薩の境地である」とある。
どういう意味であるのだろうか。

禅定において、ダンマ・如来が顕わになり、妙なる恍惚は菩薩の境地であるといえる。しかし、性愛の恍惚は、禅定のそれとは同じではない。
忘我となり、真っ白な世界で、恍惚となるという点においては、同じといってもよいかもしれない。しかし、人は誤解して、性愛の恍惚を禅定の恍惚と同じとしてしまう危険があるかもしれない。
如来と交わるという意味では、なかなか核心をついている。恍惚や楽という点もそういえる。

ダンマが実感される禅定の楽は浄土の楽と同質である。
如来の本願力によって、浄土が建立されている。それは禅定において、如来の本願力によって、体験される世界が浄土になっている。また、楽と体験されることに相似する。

本願力は加持力。如来の働きによって、われわれは三昧に入ることができる。経典はそう説く。

法身の働きによって、われわれはいつかは、成仏する。功徳が完成して報身を得る。これが大乗の説く成仏。原始仏典のそれとはまったく違っている。原始仏典のダンマの体験者を阿羅漢といっているのはそのため。

阿弥陀仏も法身の働きによって、成仏した。浄土を建設した。
われわれも、同じく、そのようになる。

親鸞は若い頃、性愛について悩んだが、それが仏道の実現に妨げになるものではないと自身の探求によって、知った。

理趣経は、仏教がそれ以前に、性愛を仏道の妨げるものとして、退けていたものをあえて、このように登場させていることは、それの否定や拒否によって、人間の本性を歪めることはふさわしいことではない、といっているように感じる。

本当に注目すべきことは、本来清浄である法身こそ、である。
法身を実感し、身に体感して学ぶことにある。
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プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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