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自己放棄

禅定の極意は何もしないこと。
玉城康四郎は最晩年、終地に達した。
如来に任せる。任せるということもいらない。如来のひとり働き。ほんの少しのこともあれば、如来の働きを妨げる、と。

如来は働いているのだから、まったく自分は何もしなくてよい。
全く何もしないことがそのまま如来の働きとなっている。
如来はそこに座り、光明を放っている。

如来の働きによって、そのようになる。

身命財を捨て、法身を得る、と経典にあるが、禅定においては、何にもしないこと、自己放棄がそのまま、如来の働きになっている。それが仏道の基本の禅定であり、それがしっかりと身につけば、終地といえるだろう。
終地はもちろん、基本の実現であり、そのはじまりにすぎない。
無限にわたる仏道の実践のはじまりである。
それは人間を超えた者を意味するのではなく、その人のままに、如来とともに道を歩むという、ごく普通の仏道信仰者のそれである。
その歩みの先は、釈迦如来や阿弥陀仏、ビルシャナ仏のような報身仏に成ることである。
その歩みによって、功徳が完成し、はじめて実現すると大乗経典はいう。原始仏典はそれを説かない。

原始仏典から大乗仏典への展開は必然である。
玉城康四郎も、大乗経典の法師は原始仏典のブッダよりもはるかに器が大きいといっている。大乗の論師の力量では大乗経典の法師とはまったくなれない。

論を学ぶよりも、経典を読んでみることのほうがはるかに有益であると私は信じる。だから、論は読む気がしない。
起信論をちょっとだけ見たけれども、?である。
読む人により、その益も違うのでしょうが、私は断然、経にこだわりたい。

上から目線で、だいぶ偉そうなことをいってしまうと、
これから玉城仏教を学ぼうとする人は、玉城先生の本を好奇心をもって学んでいくのが大事なのではないかと思う。おそらく、よくわからないことがいっぱいあると思う。好奇心をもって、それを解いて行くことが大事ではないかと思う。
もちろん、それに平行して、実践が必要である。それは各々、工夫して見つけていくよりほかないのではないか。それはなかなか大変なことだろうと思う。

何を偉そうに、と自分にいってみた。そうだ。結局、私の理解も個人の信仰としての価値しかないかもしれない。勝手な自己満足かもしれない。
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プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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