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魔と終地

以前、このことに関して、自我肥大の危険に書きました。

自我肥大は慢心、魔であり、ダンマの体験には、常にこの危険が伴うと指摘しました。無生法忍に満足してしまえば、これ以上のものを求めないことになるから、発心はできなくなってしまいます。最上悟りを得たと誤認してしまう。たとえ、これ以上の無いほどのダンマに徹底しようと、それは最上ではないことにしっかりと気づいていなければなりません。
業熟体である私・衆生である私・元の木阿弥である私は、如来とともに仏道を歩んでいく。このことは玉城康四郎が最後にわれわれに最も伝えたかったことである。先生の最晩年の著書を読めば、われわれはそれを知ることができる。

玉城先生は終地をブッダのことばをあげて説明した。それは不動の確信である。
それを魔によっても、いかなるものによっても動かされないと。
果たして、実際はどうであったのか。
業熟体である私・衆生である私・元の木阿弥である私が不動の確信を得るとは、まったく意味が通じないではないか。無明の私が不動の確信とは何なのだろうか。きわめておかしい!!

大乗経典は如来の四無畏を説く。如来のみが持つものとされている。
終地・無生法忍を実現した、元の木阿弥である「私」は如来の四無畏を持つことにはならないのは明らかである。
もし、終地を実現し、魔を克服したとか、不動の確信を得たなどと自負する人がいるとすれば、思い上がっているのだと思う。こうなってしまえば、大変残念なことだ。このような人はおそらく、大乗を誹謗するだろう。大乗の教えを尊重していることばを述べていたとしても、その実は大乗の教えを小乗のものとして勝手に解釈してしまう。これは大乗の立場からすれば、かなり残念なことだ。

玉城康四郎は謙虚になることの大切さも述べている。それを忘れてはならないだろう。

玉城仏教はさらに発展していかにければならないだろうと個人的には思っている。しかし、少なくても、玉城先生の実現したところまでは達することが必要だ。そのようであれば、おそらく、自然と大乗へと転換していくだろう。

私がここで説こうと思っているのは、仏乗である。法華経の説く意味によって。
玉城先生も最後には仏乗を説いた。そこで幕を閉じられた。それを進めようと思っている。

私は仏乗の信仰者である。それは法華経のみを選ぶという意味ではない。仏乗の意味によって。
だから、他の人にも仏乗を勧めたい。その気持ちから。
釈迦如来、阿弥陀仏、ビルシャナ仏のような報身仏になることを目指す気持ちを起こしてほしいと心の底から願っている。
もし、それに抵抗があるならば、原始仏典の教えに従うのも一つの道であるだろう。玉城康四郎は初地、中地、終地の道程として詳しく説明してくれている。それに基づいて学べば、ブッダのように終地に達するだろう。
大乗経典に基づこうと、原始仏典に基づこうと、どちらにしても、玉城仏教に共感する人は終地を目指して学んでいくことの重要なことには変わりがないだろう。
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プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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