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禅、業熟体、縁起

玉城康四郎先生によると、禅の教えは業熟体を無視する傾向があると述べられていたように思います。禅がそれに取り組むことが、これからの課題であると。

玉城先生は禅の達磨は業熟体に目覚めていたと評価していますね。苦や楽にあうとき、それが過去の業によるものと。どうなんでしょうかね。今の結果はすべて過去の業の報いなんでしょうかね。??自業自得??そうかな??って思います。
すべては縁起であるというのが、仏教の基本的立場でしょう。ありとあらゆるものは関わりあって生じているというのが、縁起でしょ。いま、そのようになっているのものは、ありとあらゆるものとのかかわりの中で、そのようになっているのでしょうに。そのひとつとして、過去の業も含まれるのでしょう。
縁起を正しく見るのは仏のみであるといいます。凡夫であるわれわれには、それはできない。

たとえば、いま、ひとりの苦しんでいる人がいるとしよう。それはその人がそれまでの生き方が悪かったせいなのでしょうか。そうではなく、その人の置かれ状況や運などによって、本人の力ではどうしようもなく、そのようになってしまったということもあるでしょう。ざっくりした言い方をすると、自分のせい、社会のせいなど、簡単にわりきっていうこことはできないはずです。

いま不幸にあえいでいる人に対して、それは過去の業のためだから、仕方ない。それに耐え、罪の穢れを償いなさい、ってなんて冷酷な言い方なのでしょうか。仏教はそんなこと説いているでしょうか。私は絶対にそうではないと思っています。

業熟体とは、無意識的なもので、何か得体の知れない闇をもつもの、として自覚されるもの。ときに、それは意識の支配を凌駕して、圧倒的な力を発揮して、非理性的な行動へと向かわせることがあるだろう。それを業というのなら、違和感はない。心の底の得体の知れなさです。みなんさんはどう思いますか。
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プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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