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業熟体の自覚、偏見の危険

禅宗には、業熟体の考えがない。また、無視されているようだ。
仏道の根本原則に基づかないとすれば、大問題だ。
親鸞は宿業の自覚がある。日蓮も劣悪の己心の自覚がある。
玉城康四郎は著書において、現代の日蓮系の教団において、この点が無視されていると述べていたと記憶している。
大乗経典において、親鸞のような宿業の内省しているようなものは、ないように思う。
玉城康四郎は、晩年、親鸞の教えに傾倒していたようだ。
現代の仏道は、業熟体の自覚とともに、仏道の根本原則である、「ダンマが業熟体において顕わになる」という目覚めの体験に基づかなければならない、と述べている。

このことは、各宗派の教えに当てはまることだろう。

この身体は、禅定において体感される身体である。それは底がなく深い。深い深い闇、真っ暗闇である。無知、盲目の生命体である。玉城はこの自覚において、自らを蛆虫のこどく、といっている。
まさしく、そうである。真っ暗闇で、手も足もでなく、目も見えず、のた打ち回る蛆虫である。

深い禅定において、われわれはそのような存在であり、それはダンマ・如来によって救われる。目覚めされる。と、いうのである。

われわれは、それを、習熟した禅定において、体験する。

この業という言葉は、大変危険なことばだ。
現世の報いは過去の行為による報いであるのだから、いまの苦しみは過去の業の結果として甘受しなければならないという理解がある。
私はこれは、大変危険な見方、考え方であると思う。
以前のエントリーで述べたが、業報を正しく理解できるのは、如来のみであって、われわれ人間にはそれはできない。
すべては縁起によっているのであって、それを正しく見るのも如来のみである。

現に苦しんでいる人たちに対し、それは過去の行いの報いであって、自業自得などと看做す考えは、完全に偏見であり、妄想であると思う。私は決して、そのような考えを持たないし、それを否定する立場である。

経典には、ハンセン病が前世の業の報いなどと説いているが、これは、完全に偏見、妄想である。あまりにも酷すぎる。このような偏見は完全に否定すべきだ。
経典の誤りは正すべきである。経典・教義を絶対視することは、大変怖いことだ。
経典のそのような誤りは、現代の世において、正されるべきだろう。

私はこの世は、縁起によっていると思っている。
ありとあらゆるものの関わりあいによって生じている。玉城もこの理解によっていたと思う。

縁起であるのだから、その人の現状が過去の行為の結果であるかどうかによって、すべて決まるなどといえるはずもない。
何の罪のない人に対し、業の報い、自業自得などと看做し、差別や偏見を持つことは、何と愚かで、罪深い行為であるのか、と思う。決してすべきでない。絶対に。
たとえ、それが経典に書いてあろうと、開祖が述べていようと。それは誤りであると完全に否定すべきだ、と私は強く思う。
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パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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