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井上ウィマラさんと玉城康四郎さんとでは全く違う

昨日は、また、ある仏教の勉強会に参加した。
その会は、講師と参加者の多くが井上ウィマラさんの教えるところにかなり影響を受けている。私は彼の本は全く読んだことはないのだが、その勉強会のために、先月、彼の著書『呼吸による気づきの教え』を買ったわけだが、そのまま放置、読んでいない。
昨日の勉強会を終え、帰り道に、気乗りはしないが、井上さんの説いていることをほんの少しでも知っておいた方がよいと思うようになった。というのも、玉城仏教に基づいて学んでいるという、ある人物がいるのだが、その彼はそれなりの権威を持っていて、この井上さんの影響をかなり受けて、玉城仏教を説いているとしつつ、いろいろとその井上さん的なことを述べていることは、やはり問題があるのでないか、と思うからです。
井上さんと玉城さんの言っていることが同じであると、間違って理解されては、玉城康四郎ファンの私として、とても不快に感じる。もちろん、ごく普通の人がそのような理解をするのは自由ですが、ある程度、権威ある人が、誤解を受けるような言い方をすることに対し、不快に思うだけである。

井上さんの先の著書を通読することは、気乗りがしないので、できない。私が思うキーポイントのみに関する部分のみ、ざっくりと読む事にする。
決して、井上ウィマラさんに対する批判を目的にするわけではない。玉城仏教の違いだけは明確にしておきたい。
両者を読んだことのあるひとには、その違いは明確ではないかと思う。
どうして、同じようなことと理解できるか、私には全く理解できない。
以下、述べてみる。

井上さんは、ダンマを玉城のいう形なきいのちとは捉えず、真理、教えと捉えている。これは従来の仏教一般流布する理解に基づいている。井上さんは、おそらく、智見の清浄の項目にある、道心(悟りの心)が生じることが、玉城の述べている悟りの体験に近いという理解がありうるのではないかと思います。先に紹介した人物は、もしかしたら、そのように理解したのかもしれません。その人物は連絡の取れない遠隔地にいるので、どうであるのか聞いてみることはできない。
井上さんが、もし、玉城のいう悟りの体験を得ているとしても、その段階に留まれば、玉城から見れば、初地の段階に留まっている、とみなされるだろう。

気になるのは、井上さんが述べている以下のこと。引用する。
「道心は、極めて深い集中力を伴った心で、涅槃を対象として生じ、一瞬のうちに空白に飲み込まれたような、弾丸で打ち抜かれたような、何かが断ち切られたような印象を残します。しかし、それはあくまで後から振り返った印象であって、涅槃に触れる体験を言語やイメージによって説明することはできません。」(井上ウィマラ『呼吸による気づきの教え』)

玉城の言う悟りの体験と同じような表現であるように、一見見えるが、私には、かなり違って見える。
ダンマが顕わになっているとしか表現できないような、自我が粉砕し、ダンマが占有している状態であると玉城はいっている。
涅槃を対象とするとか、弾丸で打ち抜かれたとか、断ち切られたとか、涅槃に触れる体験ということばは、玉城の悟りの体験とは、別種のものである。涅槃は触れることも、対象ともならないし、集中した心の状態でもない。

井上さんが、おそらく、体験したであろう「道心」は、玉城の言う「ダンマの顕現」とは、全く別である、私には思える。
だから、私は両者を同じものと理解すれば、混乱を起こし、玉城仏教を基づくといいながら、実は、井上ウィマラ仏教を実践しているのだな、と、私はそう見える。

もし、その説明に不信を感じるならば、玉城の著書をじっくり読んでみることをおすすめする。どう読んでも、同じとは理解することにはならない。どうして、先の人物が、そう理解したのか、全く理解不能である。

ここで、念のためもう一度言っておくが、井上さんの説くことが間違っているということを目的としているわけではない。先の人物が、ある権威を持って、玉城仏教を解説しているが、実は、井上ウィマラさんの解説する悟りを、玉城のいう悟りと同じとしているかのような理解に基づいて、他人説いていることは、やはり問題であると、個人的に強く思うからが、その理由である。私にはそう思えた。先の人物に確認することはできないため、質問もできない。

そのような理解で、今後、玉城仏教の学習会を行っても、無意味どころか、有害であると思える。だから、きわめて残念である。
私は既に、私の考える玉城仏教と、その後の発展をその会で述べた。もう、それで十分である。玉城仏教の基本の理解ができていないで、さらなる発展を述べても、全く無意味だろう。釈尊が法華経を説くことを躊躇した理由がわかる。もちろん、その釈尊とは、歴史上の人物ではなく、経典に登場する非歴史的存在であるが。

玉城は、最晩年にいたる終地に達する以前に、『新しい仏教の探究』のなかで、大乗経典を創作した人物は、原始仏典のブッダの器量をはるかに超えていると書いていることから、それを理解していた。
しかし、玉城の意志を継ごうとする人達が、いまのようなあり方では、先は真っ暗だと思える。あまりにも残念だ。

涅槃にいる玉城は、そのわれわれの姿を見て、どう思うのであろうか。
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プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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