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普賢行とは何か

一般に理解されている普賢行とは、悟りに入らず、衆生のなかで、菩薩行を実践し、衆生を救済していくこと、であろう。
確かに、そうだろう。
しかし、私が以前のエントリーで述べたのは、その悟りとは何か、それをしっかりと理解しなければ、大乗経典が説く普賢行の意味を大きく間違って理解してしまうことになることを説明した。
その悟りとは、原始仏典の最上の悟りでは全くなく、大乗が説く、究極の悟りのことを指している。
玉城康四郎は、原始仏典の最上の悟りを終地と名づけた(ざっくりとした理解でいいだろう)。この終地から仏乗がはじまる、と玉城は言う。

終地に達しても、その悟りは、仏道の基本の悟りにすぎず、究極の悟りははるか先にあることを認識することなく、それを最上と見なし、そこに留まってしまえば、『十地経』のいうように、阿羅漢や独覚と同じとなってしまう。諸仏は、わざわざ登場して、その修行者に発心することを求めている。私は『十地経』のその説くことを挙げて、それを説明した。

『無量寿経』では、浄土に留まるあり方と普賢行のあり方の二つを挙げている。そのとぢらを選択しようと、究極の悟りへと向かって修行するのである。だから、それを不退であるという。

終地の悟りを最上の悟りと理解してしまうと、普賢行の本来の意味が見失われてしまう。
『法華経』の説くように、それを方便として説くなら、大乗経典の説くところに適ってはいるだろう。方便とは思わず、それを仏乗であると理解すれば、大問題である。

大乗経典の説く「無生法忍」は玉城のいう終地であると理解する必要がある。
これは、決定的に、重要である。最重要事であるといってもいい。
この理解があれば、大乗経典を読んで、理解できるはずである。

無生法忍は『十地経』では第八地にある。その説くところに従って、修行者は第九地へと進んでいく。
そこでは、衆生や世界を細かく見ていく。
これは、無生法忍の悟りに徹底して深めていくから、そのように観察が可能になるとは私は考えない。もちろん、それが重要なことは言うまでもないことである。
私はこの細かく見ていくことを思考や自我の働きであると解釈する。
細かく分けていくということは、その働きであると思う。

以前のエントリーで紹介した、ラマナ・マハルシに対するユングの評価が参考になる。徹底して、アートマンに住することは、すばらしいに違いないが、自我の存在を認める必要があるだろうと指摘している。私も、そう思う。
ラマナが実現しているアートマンは玉城の言うダンマと同じであると思う。玉城も著書でそう述べている。

私は仏乗に基づき、仏乗を説く立場である。
だから、そう説かざるを得ない。
このようなことを説いている人は、ほかにいないかもしれない。
たった一人であろうと、他の人たちに、仏乗を説き、実践してくださいと呼びかける。素人に過ぎないにも関わらず、である。
バカなことを言っているんじゃないという批判は当然あるだろう。
しかし、私の言っていることを理解する人も必ず、いるに違いないと思う。
このブログで書いていることは、その人たちに向かっての呼びかけである。
必ずいるだろう。
仏乗が理解され、実践されていくことを心の底から願っている。
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プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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