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業熟体と偏見

玉城仏教を学んでいる人は当然知っている業熟体。
玉城仏教を学んでいる、ある人物Aが、いま、地球上で不幸なところに生まれた人が、現に不幸に遭遇して苦しんでいるのは、前世での過去の行いの報いである、と述べたことに私は大変驚いたことがある。彼は、それを業熟体はこういうものであるという他人に向かって説明している最中に、それを述べたのである。
何て、愚かな理解なんでしょう!あまりにも酷すぎる。
このような理解をするなら、学ぶのをやめたほうがいい。そのようなことを他人に説くとは、人に毒を食らわすのと同じだろう。
日蓮にも、このような理解があるので、要注意。

絶対に、先のような業報の理解をしてはならないはずである。それは完全な偏見・差別である。決してそのようなことはあってはならないはず。
言うまでも無く、この世に生まれてきた人はすべて平等である。
経典や信じる開祖の著書に書いていることを絶対視し、先のような偏見・差別を持つことは、きわめて愚かなことであって、してはならないことである。

私は業の果報は、もちろん信じる。ただ、それは、今後の先の未来のことや来世に対し、そのような果報を得ると信じている。過去の業についてはどう考えるのかというと、この世に生まれてきたことは、どこに生まれようと平等であり、前世の行いの善悪もすべてのこの世に生まれたきた人はみな同じであると考えるべきであると思っている。
変に教義などによって惑わされて偏見を持つことになる。

業熟体はもちろん無限の過去の業の結果として生じている。と同時に、ありとあらゆるものとの関わり合いのなかでも生じているものである。

この業熟体は、禅定において実感されるものである。
それが無限の過去を持っていること。得体の知れない深い闇とわれわれがなしてきたであろう罪深さを実感するのは、不思議である。禅定に徹底するから、そのように誰しも自然と実感されるのか、それとも、玉城の著書を読んで影響を受けているから、そのようになるのだろうか。おそらく、後者ではなく、前者であると私は思っている。

いま苦しみを得ている人は、自業自得のためなのか。
私はそれも、現代によく広まっている自己責任論があるため、それは、あまりにも一面的な見方であると批判しておくことにする。
確かに、そのような面もあるだろうが、われわれは社会という関係性のなかで生きる存在なのだから、社会からの影響を強く受けてしまう存在であることはいうまでもないことだが、自己責任論が広まる社会では、それが無視される。

自分のせいか、他人や社会のせいか、という二元論の見方に陥ることは、常に愚かである。いうまでもなく。

縁起とは、一切のものは、ありとあらゆるものの関わりあいによって、生じることを意味する、と私は理解している。

縁起を正しく見るのは、如来のみであり、われわれには、如来と同じくそれを正しく見るということはできない。

他人が苦難を受けている姿を見て、その人のことを自業自得とか、前世の業の報いであるとか、何かの権威を持つ人がいうことは、きわめて愚かで、危険である。なんちゃってオカルトのお遊びなら、許されることかもしれないが、社会に差別や偏見を生み出すなら、きわめて有害である。

だから、先の挙げたある人物Aのした偏見・差別の業報の考え方を私は完全に拒絶し、否定する。

ダンマを受け入れ、耐えること。忍受すること。その実践によって、ついには、それは業熟体に徹底し、熟し、体からダンマが放たれていくようになる。

これは、過去の業による罪を滅したことになるのだろうか?

それを実現した人は、禅定のなかで、ダンマがありとあらゆるもの罪と汚れを清めていることがわかるだろう。
ただひたすら、その働きの状態をいること。玉城のいう、如来の独り働きである。

その人が禅定に入ろうと、入るまいと、如来はただひたすら、世界を清めている。
如来が世界を清めていることに参加することが、三昧である。
だから、如来は三昧なのである。
われわれは自力で三昧に入ることはありえない。如来の働きによって、三昧に入る。

その三昧に入ることは、ある意味、自利のみならず、利他である。
如来の働きをひたすら受けることが、利他となっているからである。

ただ、絶対に間違ってはいけないのは、その三昧を実現した人がその人格や自我が変化して、人類の教師のような聖人となることは、終地の実態から考えて、全くありえないということである。
その人は、その人のままである。多少の変化はあるかもしれないが、その程度である。だから、ごく普通の人の仏道というのである。
何だ、そんなことか、といってはいけない。
重要なのは、如来の働きをひたすら頂くことが、仏道の根本だからである。

如来と二人連れで、仏道が歩んでいく。これが仏乗である。

終地を利他の開始であると単純に理解してはならない。
終地は、如来が利他であることをしっかりと体で理解することのはじまりである。

私は終地の禅定が利他であることは、かなりな慎重さで、認める。しかし、多くの人が大抵、誤解することが多いので、そのようにいうことは、控えたいし、強い抵抗を感じる。

如来こそが、真に利他を行うことができる。われわれはそれを現実には全くできるはずもないが、如来を直に体で学んで、利他とは何であるかを慎重に探究することが大事ではないかと思っている。
しかし、私は私自身のことを考えると、そのような道徳的な生き方は無理だろうとも思っている。ただ、やれることはやっていきたいとも思っている。

いうまでもないことだが、仏教は、ごく普通に生きるわれわれができる利他の実践を説いている。それは、各人がその気持ちと力に応じて、いま、できることである。
まさか、「終地を実現してから、私は利他を実践するつもりだ」という考えの人はいないと思うのであるが…。
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プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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