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業熟体って、何?

テキトーに書きます。詳しくは玉城康四郎先生のご本をお読みください。

超簡単に言ってしまえば、禅定において体感される微妙な身体(身心一体となった)のことです。
これは原始仏典のブッダがいう業異熟に相当するもので、玉城先生が業熟体と新たに名づけました。業熟体とは、輪廻転生する主体であり、過去の業によって、いまここに熟しているもので、「私」の極みであると同時に、ありとあらゆるものとかかわっている。だからそれは「公」の極みでもあるといいます。
禅定によって体感される微妙な身体は過去の業によって、いま、ここに熟して、このようにしてある。それが輪廻の主体。その主体は縁起であり、ありとあらゆるものとかかわりをもっている。この主体にこそ、ダンマが顕わになる、と玉城先生は説明します。

仏道の根本とは、「ダンマが業熟体に顕わになること」。これが目覚めであり、解脱であるといいます。悟りの体験、ダンマの直接体験、涅槃の実現です。悟りの体験が仏道の根本である、と玉城先生は強調する。仏道を学ぶことは、この体験を自らの身をもって、体験し、ダンマに学び続けることであるといいます。

1.解脱は一度体験すれば、大丈夫になるわけではなく、ダンマの顕わになった境地から醒めて、元の木阿弥の自分に戻ります。これはほとんど誰もがそのようになるものであるといいます。だから、再び、解脱が得られるように、修行者は禅定に専念します。再び、解脱を得ても、また元の木阿弥となります。これを何度繰り返すことになります。この過程は、なかなか努力がいるもので、疲れます。

2.この何度も体験を繰り返すことで、次第にダンマが体、つまり、業熟体に馴染んできます。すると、ダンマが努力せずとも、自然と顕わになって、その体験が安定してきます。ここで、禅定の基本が身についた、あるいは、ダンマの直接体験が身についたといえます。

3.この基本を繰り返し、体をもって学んでいくうちに、さらに進展して、この体(業熟体)から、ダンマが放散していくようになります。これが玉城先生が体験された最上の境地です。この体験を得てみると、これこそ、本当の意味で、仏道の基本が身についたといえる。これが仏道の出発点であるといいます。これは、ブッダの教えに従って学べば、誰でも、そうなると玉城先生は断言しています。

上記のような過程を禅定の修行者は経ていくといいますが、必ずしも、そうとも限らないこともあるだろうと述べています。
この道程を玉城先生は、「初地」、「中地」、「終地」と名づけ、説明しています。上記の1が初地、2が中地、3が終地です。

テキトーな説明なので、詳しく知りたい方は、ぜひ、玉城先生の本を読んでください。

大事な点は、業熟体、つまり、禅定で体感される微妙な身体(身心一体)にこそ、ダンマが顕わになること、です。超大事です。
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プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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