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『玉城康四郎、死後の仏道、私見』

ある仏教研究会で『玉城康四郎、死後の仏道、私見』と題するエッセー風のものを同じ参加者の方に読んでくださるとありがたいと思って書いたものがあります。以下、それを掲載します。

『玉城康四郎、死後の仏道、私見』

 二河白道のたとえにあるように、死後も先生は、如来のお力によって白道を歩まれているのではないか。(NHK教育TV[心の時代 玉城康四郎の世界]木村清孝の発言にて、趣意)

『浄土経』によると、死後、浄土に生まれた者に、二つの選択がある。ひとつは、浄土での修行と、もうひつとは、浄土にいず、普賢行の実践である。どちらを選ぼうと、最終的には、法身、仏智が実現し、報身を得る。自身の浄土を持つことになるという。玉城先生はどちらをお選びになったのか。

玉城先生は、志を同じくする者たちに、自身と同じように実現するようにと、初地、中地、終地の道程をお示しになった。誰でも、それは可能であると明言されている。
先の木村先生の発言から、死後の玉城先生は、いまもなお、仏道を歩まれている。仏と成るための道を歩んでおられる。この歩む姿は、われわれに対して、ともに、仏と成る道を歩もうという呼びかけとして受け取ることができるのではないか。それは生死を越えた久遠の仏道の歩みを意味するだろう。

『十地経』では、第十法雲地の菩薩と仏とでは、全く比較にならないほど離れているという。そして、第十地の菩薩が仏となるためには、とてつもない時間にわたって修行しなければならないという(歴劫修行)。
大乗経典のいう発心(菩提心を起こすこと)は、先の、成仏への道を歩もうとする心を起こすことを意味するだろう。
よって、ダンマの顕現を得ること、また、終地を目指すことは、発心を意味しない。
『十地経』では、無生法忍(終地に相当する悟りと思われる)を得た者が、発心することがなければ、小乗の阿羅漢や独覚と同じことになってしまうと警告する。無生法忍は阿羅漢、独覚でも実現できるという。諸仏は、無生法忍の実現者に対して、成仏への道へ向かうように促す。無生法忍の悟りの境地を最上の悟りと勘違いしてはならないという。諸仏はここに、危険な陥穽があるという。この第八地で、あらためて、発心することを強く促している。
せっかく、第一地において、発心し、菩薩となった修行者が、ここで勘違いをしてしまえば、菩薩ではなく、阿羅漢、独覚となってしまう。せっかく、無生法忍を得たとしても、仏の目から見れば、第一地の菩薩の方がすぐれていることになってしまう。無生法忍の実現は、そのまま、不退転の境地とはならず、最低限、発心を絶対的な条件としている。ここに、小乗と大乗の決定的な違いがあることになる。

玉城先生は、大乗経典をきわめて高く評価されていた。大乗経典に成立にかかわった人は、原始仏典のブッダよりも、はるかに器量が大きいと。あるいは、ブッダ入滅後、ブッダの人格体が転換して、そこから説法されたものではないかとも。また、竜樹などの論師の力量では、とうてい大乗経典を創ることはできないともいっている。

玉城先生は、終地は仏乗に乗ることであるという。大乗経典の示すところにのっとっていえば、終地の実現がそのまま、仏乗に乗るということではなく、終地の実現が最上のものではないと自覚し、発心することが必要になる。完成者として衆生救済に向かうというのではなく、修行者として、発心し、究極の完成へと向かって歩んでいくことを意味することになる。

 『法華経』は仏乗を明かす経典。仏弟子の舎利弗は久遠実成の釈尊より、仏乗の説法を受け、仏乗に乗ることができたとある。このことは、玉城先生は、終地の説明に挙げている。『法華経』は次のようにいう。終地を実現した舎利弗は法華経の説法を受け、発心し、声聞から菩薩に転換し、成仏の授記を受ける。歴劫修行を経て、功徳が完成し、 如来となり、浄土の建設すると(報身の実現、大乗の説く成仏)。
これが、仏乗に乗る実例となる。玉城先生の仏乗をこの意味として理解できる。

 『金剛頂経』の五相成身観は禅定により、成仏に向かうプロセスを示している。
如来の加持力を受け、修行者は、自ら具わる仏性・法身が顕わとなり、次第に身につき、確立する。さらに、その菩薩は灌頂をうけ、金剛界菩薩の名を得る(おそらく、第十地に相当する)。さらに進んで、ついには、功徳が完成し、仏の姿を得た報身を実現し、釈迦如来となる。このすべては如来の加持力によって可能になるという。玉城先生の説明に、加持はサンスクリットでアディシュターナ。これは本願とも訳されるとある。
『華厳経』や『浄土経』にある本願力に通じる。本願力によって、三昧に入る。本願力によって、念仏し、不退の境地に至る。

真言、天台、日蓮は即身成仏を、禅は見性成仏を説く。この成仏のことばの意味することは何か。先の玉城先生の説明する意味と違うことになると、大変危険なことになる。もちろん、大乗の立場から見ればということだが。
玉城先生が示されたように、われわれ一般人でも、この体をもって、ダンマ・如来を体感することができる。歴劫修行しなければ、ダンマ・如来を体感することはできないということは決してない。この生きた身のままで、可能である。

玉城先生は、自分の縁にあった行道の実践を気長に実践していけば、誰でも、不退転の境地に到ることができるという。唱題、念仏、坐禅、三密行など。そのほか諸々。

われわれにおいて、既にはっきりとしている。それは、仏と成ることを目指し、自身の合った行道を実践し、ダンマ・如来を体感することを体をもって、学び続けることである。
このことができれば、いまだ、終地を実現しないとしても、既に仏乗に乗っているに等しいであろう。難信難解の仏乗を身をもって実践し、学ぶことになる。この意味を残念ながら、多くの仏教者が理解していない。『法華経』はいう。仏乗の説くところ、如来はそこに居て、それを聞き、その者をほめると。いま、ここに、縁起のなか、如来は現れているに違いない。
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プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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