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終地は自我肥大と無縁ではない

終地は誰でも実現できると、玉城康四郎は、繰り返し強調して述べている。
玉城自身も、もちろん、最晩年に、終地を実現したといっている。
初地、中地、終地の道程は、ブッダの道程を例に挙げ、説明しているが、もちろん、玉城自身の求道において、そのような過程を歩んでいる。そのことから、この道程は、そのほかの人にも通じるものと考えることができるとしている。ただ、必ずしも、そのような道程を歩むとは限らないだろうとも述べている。このことは玉城の著書を読めば、確認することができる。

玉城は、終地のダンマ・如来に徹底する体験を、原始仏典のブッダの不動確信を例に挙げて、説明している。
私は、この不動の確信について、徹底して批判する立ち位置に立つ。
なぜなら、終地の実態に即して考えれば、現実としてありえない、と考えるからである。
不動の確信の状態は、確かに、如来に徹底している状態であるに違いない。しかし、それを不動の確信と思ってしまう、終地の禅定の体験者は、ダンマ・如来の持つその性質ゆえに、自我肥大を起こしてしまう。人間である自身が、如来となってしまう。自身を見失ってしまう。如来に徹底するからこそ、そのようになるのであるが、それと同時に、自身は自身を忘れず、自覚し、人間でありつづけることが求められる。私はそのことを繰り返し強調したい。

如来となってしまった自我は、万能感ゆえに、如来の働きに従って考え、行動すれば、それは正しいこと、他人にとって役立つことであると思ってしまう。
ユングは、自我肥大の例に、神通力で水中を歩くことができると確信するチベット僧が実際に、それをして、全くできなかったことを挙げている。
このような神通力など、考えるまでもなく、明らかなことであるが、信仰、教義、道徳などにも及んでしまうと、大変問題であるだろう。
だからこそ、これは危険であると繰り返し強調するのです。

自我肥大は魔の境地だ。正しい悟りは魔境とは無縁であるというような理解が一般的であるように思う。この考えは、私が指摘する先の危険と矛盾することになるので、なかなか理解されることがない。おそらく、ユング派の心理学の本を読んだ方なら、わかっていただけるのではないかと思うが。

確かに、第三禅の楽に留まって、涅槃の境地にいたらないで、それを誤って、涅槃の境地と思ってしまうとすれば、やはり、問題であるだろう。
禅などでは、それは魔境と見なされるかもしれない。
ただ、誤解してはならないのは、第三禅の楽は、禅定にとって大事な基本であることを無視してはならないことである。この楽ができて、さらに深化して、ついに、解脱をえるからだ。その解脱が得られれば、輪廻の束縛から逃れると考える人がよくいるが、どう考えようと自由だが、私はそれは的外れであると思う。涅槃の境地を体でしっかりと実感することができることが、その後の修行にとって大事な基本を身につけたに過ぎないと思うからだ。重要なのは、終地をめざすことである。

終地を実現しても、無生法忍の悟りを最上と見なし、そこにひたすら留まってしまうとすれば、阿羅漢・独覚と同じとなってしまう。
ただし、終地の禅定の実現者が、この悟りは、これ以上のものないと実感されるものでなければならないことはいうまでもない。

この悟り・無生法忍を得たものは、この身のままに浄土に往生したことと同じである。如来が中心となり、光明を放っている。その世界は果てが無く、広がっているのである。もちろん、これは観想やイメージで思うことではなく、ダンマがそのようになっていることを表現するなら、そのようになるということである。大乗経典の描く浄土は、なるほどと思う。
法華経では、声聞の阿羅漢が浄土の様を知ることがないととあるのはなるほどと頷けることだ。
終地を実現したものが、自分と言う自学がある程度あれば、浄土において、如来の説法を聞くとか、如来を供養するという意味がなるほどと理解できるはずである。

ひたすら、如来のお力を頂く。これが仏道の根本である。

浄土での菩薩の修行はそのようににされるだろう。
これをいまの現実の世界で、そのような修行をすることは、それを行えるだけの環境に恵まれていないと難しいだろう。

そのような生き方ではなく、つまり、浄土ではなく、この世で、終地の人が仏乗を生きるとは、これも大変である。浄土と現実に引き裂かれてしまう。自我はそれに耐えられるのか。それを簡単なす人もいるだろうが、その困難を耐えねばならないとき、イニシエーションというるようなものを経て、克服しなければならないのかもしれない。

現実の世界で仏道を生きることは、その人のままに仏道を生きることである。
浄土と現実のギャップをある程度克服できるならば、その人は、その人のままに、仏道を生きることができるだろう。これを普賢行といってもよいだろう。何か高邁な仏道の実践という意味ではなく、この現実の世界で、仏乗を生きることを指して言う。経典の意味することと齟齬をきたすのであれば、違う言葉で表現してもよい。玉城康四郎のいう「如来と二人連れで仏道を歩む」もよいかもしれない。ただし、私は玉城よりも、この生きている現実を重視する立場であるから、その言葉の意味は玉城のそれより進歩的であるはすである。

玉城康四郎の著書では、人類の教師たちをダンマの実現者として登場させていることから、読者にその実現が、そのような聖人になることと理解されてしまう危険があると思う。玉城自身もおそらく、そのような意図はないと思う。
業熟体を重視した玉城康四郎。親鸞の言うように、人は業縁によって、罪深いことを犯しかねない存在なのだろう。たとえ、終地の実現者であろうと。われわれは業熟体の存在だから。

ある人が、ダンマが顕わになって、解脱を実現すれば、業熟体に転換が起きて、輪廻の束縛から逃れることができるといっていた。
私は、そんなことはありえない、と否定する。
自身の願望によって、そのように考えることはあまり感心しないことだ。
それよりも、ただ、ひたすらに、如来を実感することの実践を大事にして、学び続けることが最も大事だと思ってしまった。玉城康四郎が生きていたら、何より、実践して学ぶことを強調されたのではないかと思う。
玉城仏道のファンのみなさん、同じ志を持つわれわれは、それを大切と思って、実践して学んでいこうではありませんか。
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プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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