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終地の実態とは

玉城康四郎のいう終地は、仏道の基本である、と私は強く思っています。
何かの行の実践によって、玉城康四郎の説明するダンマの顕現の体験をたまたま得たとして、それを権威に思い上がってしまうことは、決してしてはならないことであると思います。
玉城のいう、初地、中地、終地の道程は、われわれが同じくそれを体で学んでいく上での指標として役立つでしょう。
玉城康四郎は、最晩年において、終地を実現した。原始仏典のブッダが終地を実現したと同じく、玉城も実現した。その玉城をブッダとなったとか、ブッダと同じであるとか、見ようとする玉城ファンがよくいますが、私は決して、そのような見方はしません。人間・玉城康四郎としてしか見ません。原始仏典のブッダについても、人間・ブッダとしてしか見ません。経典に描かれているブッダの姿は、弟子によって理想化された人間離れしたものであると私には見えます。
そのように見る私ですが、原始仏典のブッダに対する信仰する人たちを否定しようとはもちろん、思いません。ご自由に、としか思いません。

終地は仏道の基本です。仏道は仏乗です。
私は仏乗の立場に立ちます。
仏乗の説く成仏は、大乗経典の説く法身を実現した報身仏となることです。
これには、気の遠くなるような無限の時間をかけて修行が必要になると経典は説きます。阿弥陀仏、大乗の釈尊、ビルシャナ仏、アシュク仏も皆、そうです。

周知のように、大乗は、三祇成仏、歴劫修行か。速疾頓成、即身成仏ではないのか、という伝統仏教の理解があります。この理解が邪魔して、大乗の成仏の意味を全く理解しないで、見当はずれなことをいう人がほとんどです。

この身のままに、ダンマの直接体験はできます。これを即身成仏と私は言いたくはありません。その訳は、いうまでもないことです。
この身のままに、終地を実現できます。無生法忍を実現できます。生身得忍です。
発心は、ダンマの直接体験することを目指す心を起こすことではありませんし、終地を目指す心を起こすことでもありません。法身と同じく成った報身仏を目指し心を起こすことです。阿弥陀仏や大乗の釈迦如来などと同じくなることを目指すことです。

これほどに簡単なことをなぜ、無視して、わけのわからないことを難しくいうのか、私には理解不能です。

阿弥陀仏を目指す?バカな。そんな非現実的な!という人がいるでしょうね。
私は、それに対し、信仰ですよ、と答えます。

「現実が大事ではないか」と反論があれば、「では、現実である終地を実現してください」と答えるしかありません。

玉城康四郎のような仏道の天才と同じく、終地を実現できることなどできないとか、それを実現できるとしても、玉城先生と同じく時間がかかるはずだとか、という言い訳が聞こえてきそうです。

もちろん、その実現は決して簡単ではないといえるかもしれませんが、師を理想化するあまりに、自身のなすべきことを疎かにして、ただ、師を偉大さを感嘆して、おしまいにする人たちは、過去の歴史を見ても、たくさんいるのではないですか。

玉城康四郎は、終地は誰でも実現できると何度も繰り返し、強調したはずですが、そのことは無視されているのは、どうしてでしょうか。都合の悪いことは、無視するのでしょうか。玉城ファンなら、そうではないと信じたいですね。

その実現は確かに容易ではといえるかもしれません。やはり、玉城康四郎の著書を読み、試行錯誤しながら、探求して学ぶよりほかないのではないでしょうか。このことはやはり、大変ではないですか。

玉城康四郎は、後続する人にも、それを求めていたのではないでしょうか。

玉城康四郎はごく普通の人間であると私には見えます。
そのごく普通の人間が終地を実現し、ごく普通の人間のままに、如来と二人連れとなって仏道を歩む。究極の完成へと向かって。それが仏乗ではありませんか。玉城は真の仏道が開始されるといっていますね。
きわめてシンプルです。それを後続する人にも求めているのではないですか。
なぜ、難しく考えるのでしょうか。
私は、玉城ファンという人たちに会うたびに、そう思います。

難しいのは、終地に達することはそうだろうと思います。しかし、教えようとしていることは、きわめて簡単です。

悟りの体験であるダンマの直接体験をすれば、あるがままに物事を見ることができると考える人がきわめて多い。残念なことです。
そんなことはありえないと私は断言します。ありえません。玉城康四郎の終地の実態を見れば、明らかにそうではありませんか。普通の人間です。
理想とする聖人像を悟りの体験者に投影してしまうから、その現実の姿を無視してしまうのです。それは教祖を帰依する信徒の心の働きと変わりがありません。

悟りを得て、聖人になりたいというような気持ちを持つ人は、さらにその傾向が強いようです。

ダンマの体験は、その自体が持つ性質ゆえに、万能感に支配されて、現実を無視してしまいます。それは大変危険なことです。そのために、自我肥大の危険について、私は繰り返し、強調するのです。
それは魔境だ。正しい悟りには無縁だという伝統的な理解は、この現実を無視してしまいます。終地であっても、初地であっても、同じく、その危険が常にあるのです。
このことを繰り返し説明しても、なかなか理解されません。残念ですが。伝統的な理解に縛られてしまっているのです。

チベット僧が自身の神通力によって水上を歩けると確信して失敗することを単に笑い話では済まされません。なぜなら、終地を得た人が自我肥大に陥り、それに気づかず、権威を振るい、人を操作したり、自身の考えることを絶対視したりすることで、他人に対し、害を及ぼすことになるからです。それを権威化する個人や集団は、一歩間違えれば、病的なものとなります。それは、われわれがよく目にする宗教の持つ病的な面と同じです。
このことは、すべての宗教に当てはまるでしょう。自分だけ、自分たちだけは正しいと考えてしまい、その病的さを無縁と見なしてしまえば、その病気はさらに重くなっていくに違いありません。

正しい悟りの体験を得れば問題ないとか、正しい師について学べばよいとか、という簡単な問題ではないと私は思います。

その危険についての理解がまずは必要であるはずです。そうではないですか。

だから、私は、終地の危険について、繰り返し何度も説明するのです。

終地をブッダのようにすばらしいものと考える人たちは、私のこの説明を拒否するでしょう。自身の理想が汚され、失われることに抵抗するでしょう。別にそれは自由です。ただ、私はいうべきことはいっておきたいと思います。後は知りません。ご自由に、です。

終地の現実を理解することが大事であると思います。その上で、学んでいくことが必要ではないでしょうか。

私は仏乗に基づくので、ごく普通の人間として、ごく普通のままに、仏教徒として仏道を実践していきたいと思います。仏智を実現した報身仏をめざして。無限の時間をかけて歩んでいく。それが仏乗の実践であると思っています。
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プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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