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自我、業熟体、終地の実際

玉城康四郎の著書を読んだ方なら、おわかりのように、玉城康四郎は戒について、どうこう言ったことはない。それに関して若干述べたことはある。禅定に入ることを調えるために、規則正しい生活、食事、睡眠などがよいだろうと簡単に触れた程度である。
禅定に入るために、戒を守ることが大切などとは私が知る限り、そんなことを玉城康四郎が述べたことはないはずた。

玉城が教える禅定を学ぶのに、特別、戒にこだわることはないと思う。戒が大事だと自身で思うのは自由だが、戒にこだわり、禅定の学びは疎かでは、如来を体感するという点において、本末転倒だ。

誤解のないように言っておくが、われわれが一般人として常識であることは、大事なことはいうまでもなく、道徳や倫理がどうでもいいとはまったくいっていないし、今後も、そういうことはない。念のためにいっておく。

私はごく普通の人間で、比較的だらしがない人間(笑)であるので、道徳や倫理を語ることはできない。今後も、あまりそうしたことは、言わないと思うが、奇特な読者の方々には、そう理解していてほしいとお願いする。

私は、如来を体感して、ダンマ・如来を体で学ぶという、玉城の教える仏道の根本の実践を何より大事に思う。そのため、終地の実際について、説明することは、この玉城仏道を実際に体で学んでいく上で、最初に必要ではないかと思って、繰り返し説明した。

終地の実際は、特別なことではなく、その人間のままであり、終地の実現が、自利の完成で、そのままが利他となるというような玉城の言い方は、かなりおかしなことであると指摘した(玉城のその真意がどうであるかは既にいない玉城に聞くことはできないが)。
終地の、不動の確信や法身そのものについても、大乗の立場から、否定されるものであることも指摘した。
また、終地に達しても、当然、無明、業熟体がなくならないと玉城は指摘している。私ももちろん、そう思う。が、われわれが日常で犯してしまう失敗を、もし、無明・業熟体のためである、というような、かたよりすぎた考えをしてしまうことは問題であるということも指摘した(玉城がそうであるというつもりはない。そのような考えをしてしまう危険が玉城仏道を学ぶわれわれにありえるだろう)。
本来は、自我が担うべき役割を放棄して、無明・業熟体のせいにする。責任転嫁することはよくないだろう。

ダンマの直接体験が自我消滅、無我の体験、あるいは、自我の働きが止むこと(実際に働くなるということはなく、ダンマが中心となり、自我は中心的な働きをしている座をダンマに譲って、静かにしていること。ただ初心の人が誤解してはならないことは、無我といえるほどの徹底したものとなるように学ぶことが大事であり、単に第三禅の楽を実現しただけで、それを悟りであると誤認してはならない。)から、その自我の存在を無視したり、軽視したり、する傾向が強い。その危険について、理解しておくことが大切であると指摘した。

自我によって、すべてが思うとおりになるという考えも、もちろん、あまりにも、偏りすぎていて話にならない。
自我か、それとも、業熟体か、というようなこだわりを特別、持つ必要はないだろう。
何でもかんでも、無明、業熟体のためにしてしまうのは、よくないことは確かだろう。

終地を実現した人が、如来と二人連れとなって、如来の働きの状態でいて、考え、話しているのだから、それは智慧があるとか、利他であるとか、考えてしまう傾向が強い。しかし、このこともまったくありえない。

その人のままであるのだから、その人が考え、話し、行動している。これが間違いのない事実である。

ただ、決定的に重要なのは、如来の働きの状態でいるそのものが仏道として大事。というか、基本であり、根本であることだ。
ただそれをすることが大事であるのであって、終地になったから、智慧が働くようになるとか、利他を行えるとか、あるがままに見ることができるとか、というような、それを実現していない人の、理想や願望の投影であって、実際は、まったくそうではないことの理解が必要だ。
それを実現した人が、そのように語ることは、真実に終地を実現しているとしても、それは自我肥大であり、思い上がりなのだ。地上から離れて、舞い上がっているのだ。浄土の住人となってしまっているのだ。

だから、浄土の娑婆の区別が大切であることを以前のエントリーで説明した。

また、このようにいっても、まだまだ、終地を理想的に見てしまうことをやめようとしない人もいるのかもしれない。いや、そのほうが多いのかもしれない。
残念なことだ。
大乗の如来のように、智慧や利他はありえないことはわかるが、歴史上存在した聖人たちや開祖たちのようになれるだろうと思う人がいるだろう。
このことは終地の事実に即して、まったくありえないと私は何度もいった。
終地を実現しても、以前の変わらない、その人のままである。
このことは、繰り返し、何度も、強調しておきたい。

なんだ、ブッダになれないのであれば、意味ないじゃん、という人もいるかもしれない。そうだ。期待にそえないのではないか、答えるしかない。
玉城の示した仏道とは、そういうものだ。
というより、仏道の実際からいえば、そうなのだというほうが適切だろう。

一般に広まっている仏教の理解の阻まれて、このことを理解することは容易ではないかもしれない。残念だが、繰り返し、いうよりほかないのだろう。

仏敵といわれた提婆達多が終地を実現しても、提婆達多は提婆達多だ。しかし、仏乗に乗った提婆達多は、ダンマを護持して、無限の時間をかけて、仏道実践して、ついに、如来となるのだ。
このことは、どんな人にもあてはまる。
仏乗は大事なのだ。本来は仏乗しかない、と経典が説くが、なるほどと頷けることだ。
だから、発心を正しくすべきであると、仏乗の立場から、私は強調して説明する。

終地を最上の境地と誤認して、その実現を目指す心を起こすことを発心としてはならない。
仏国土・浄土の建設のために、途方もないほどの時間をかけて、仏道を実践していくことを目指す。この心が発心であり、誓願である。

終地を実現して、利他の菩薩となって、普賢行を行うなどと、終地の実際から離れた理解をしてはならない。
本当のことは、その人のままに、その人の仏道を歩んでいくことが仏乗なのだ。究極の理想の実現をめざして。
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プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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