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確信という言葉の使用は不適切

玉城康四郎が終地の説明に、原始仏典のブッダの不動の確信を挙げて説明している。
私は以前のエントリーで、真実に、終地を実現しているとしても、不動の確信を得たと宣言する者は、自我肥大が起こしているのだ、と説明した(詳しく知りたい方は、このブログのなかで何回か書いているので、そちらをご覧下さい)。

親鸞の「如来より賜る信心」というのも、玉城康四郎は同じであるといっている。
この信心ということばも、不動の確信というよりは、ましな表現であると思う。
ただ、これも誤解を受けそうなことばではある。

玉城のいう終地の境地とは、如来が中心となって働いている状態がしっかりと身についたことを指す。

【確信】のことばの意味は、辞書には次のようにある。
「固く信じて疑わないこと。また、固い信念。」

「固く信じて疑わないこと。また、固い信念。」は、ことばの意味からして、自我的な働きであることをお分かりの通りである。
如来が中心になって働いている状態は、信じるというような自我の働きではないことは、玉城康四郎の著書を読めば、明らかなことである。
このことから、確信という言葉は、これを誤解のないように表現するのに、ふさわしいとはいえない。

ダンマ・如来が中心になって働いている状態は、実態からいえば、自我が絶命しているのではなく(当然、徹底して絶滅しているかのようでなければならないが)、自我は通常の主役の座から退いていて、脇役となっているが、それでも、自我はまさしく、そのままであり、その働きが止むということはない(この状態をその体験を知らない人が想像することはできない)。
ただ、初心の場合、ダンマの顕現を体験することで、自我が完全に消滅してしまって、ダンマが働いている状態として実感されることがある。しかし、この体験に習熟していくと、穏やかな状態として体験されるようになる。ここに実は大きな意味がある。ダンマが業熟体に顕わになるということの意味が理解されてくる。

ダンマ・如来が中心となって働く状態がしっかりと定まってくると、その徹底さとその定着によって、自我自身の存在を無視してしまう可能性が高まってくる。この状態において、自我の微妙な働きが存在するというようなこともいったりするが、そのように実感されようとも、自我が働いているという事実に変わりがない。もし、その者が、それは微妙なものだから、大したことがないと言うとすれば、まさしく、自我の働きを軽視し、または、無視してしまう。
どんなに徹底しようと、自我は無くならないことが事実であり、自我は働きが弱まるという実感があっても、その働きには変わりがない。その自我は自我のままで、変わることがないのだ。これが事実である。
自我を見失うことがまさしく自我肥大の状態なのだ。それを指摘しても、その者は気づかない。認めないのだ。自らの過ちを無明や業熟体のためであると見なし、自我自身の本来の役目を放棄してしまう。これが自我肥大である。このことは、玉城康四郎の語りを見てみれば、確認することができる。興味のあるひとは、玉城康四郎の著書を読んでください。

玉城が終地においても、ダンマの働きのままが利他である、というような、危険な表現をしている。この点は見逃せない。そこに玉城の終地に対する究明の不足を私は見るのだ。玉城がそのようであるのも、仕方がないことである。探究するための時間が足りなかった。それを責めるのは酷である。

終地が利他であるとか、智慧が働くとか、ということはありえない、と強調して説明するのは、この危険に陥ることで、自身が気づくことは、なかなかできないという現実があり、それをできるだけ回避する必要があると考えるからである。
繰り返しになるが、この体験を権威化することで、自我の存在を見失い、ダンマが働いているままに、考え、行動することはそのまま正しいものと見なす行動が、自他ともに害を及ぼすことになるからだ。事実は、その人が考えで行動しているにも関わらず、自身を見失い、ダンマ・如来を威にして行動していることに気づかないのだ。これは実に、治療困難な病気だといっていい。

ダンマそのものが、人を知らず、知らずのうちに、人を誇大化させる。万能感が生じる。よって、その働きが人を救済するというように考えてしまう。

ところで、先にコメントを下さった方が次のように書いておられる。
【無生法忍の確信とは自分のダンマではなく、他者のダンマの確信です。自分にダンマがあるように他者にもダンマがある、その確信に基づいて未だ顕現していない他者に向かって、その人もダンマが顕現するよう働きかける、というこれもきっと賛同されないと思いますけど、私はそのように思っています。】

もちろん、私はこれに賛同しない。
確信は自我の働きである。確信という言葉を字義どおりの意味として理解するなら、そうなる。
このような一般的な理解は、あちこちにあるので、特に批判する対象ではない。
しかし、玉城仏教の意味するところと、その不足として認識する私の立場からすれば、そのような理解は、まったくありえないのだ。それは我田引水と思える。

私は以前のエントリーで、共時性について述べた。それは、心理療法家のいう、治療者が自然(じねん)状態にあるとき、共時的に、クライアントに自然治癒力が生じることが期待できることがあるということについてだ。このことが仏道にも当てはまるのではないかという、単純素朴な仮説をあげた。このことは、一歩間違えば、オカルトに陥った、ダンマの体験者の万能感と同じものとして理解される危険があるが。

加持ということも、その意味で述べた。加持とは如来の働きであり、自我の働きではない。確信、信念、働きかけということは当たらない。
加持ということは、第九地の仏道の指導者の境地においてこそ、可能であると述べた。それは心理療法家が、適切な訓練を経て、はじめて成れることと同じだと説明した。臨床が求められるのだという、単純素朴なことを述べたにすぎない。

臨床心理学のいう、治療者の万能感の危険が、当然、人間対人間の関係である以上、仏道にも当てはまるだろう。単純素朴な考えにすぎないことをいっているのだ。

ダンマを極めて権威化する人たちの発言を聞きいていると、どうして、ダンマにそれほどの絶大さを期待するのか、まったくついていけない。現実離れしすぎている。

ダンマを尊重するのは、仏道の信仰者として当然なことであるが、現実を極端に無視するのは、とてもついていけない。恐ろしい限りだ。

何度も強調して言うが、終地を実現しても、その人のままである。何も変わらない。その人のままに、如来と二人連れで、歩んでいくこと。これが仏道の基本だ。
究極の完成は、途方もない時間をかけて、如来とともに歩んでいくことで、果たされる。この実現を目指すことが、発心の最低限の要件である。
仏乗は最低限、それを必要とする。
ダンマの顕現を何度も体験しようと、仏乗を否定するならば、経典が説いているように、ダンマの顕現の体験がなくても、発心できるほうが、それよりも、比較にならないほど優れている。その経典の教えることに私は賛同する。
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プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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