スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

その人はその人のままである

私が説明する終地の実態について、「終地の実現は、そのまま利他ではないか、自我肥大と無縁ではないか」(趣意)と反論のコメントを下さる方がいるので、何度も繰り返しになるが、以下、それについて、また述べてみる。

ある終地を実現した人が、次のようにいうとする(仮定の話)。
「終地を実現した人はダンマの相続者である。その人は、ダンマが人格体に熟している。その人に接する人は、その人格体から発するダンマに影響を受けて、感化される。だから、終地の実現者は人にダンマを正しく伝えることができるのだ。」と。

さて、これは正しいでしょうか(実態に即しているでしょうか)。

また、その人は次のように言うとする。
「ダンマ・如来は慈悲心である。だから、本当の慈悲の心とは、ダンマの顕現の体験から生じるのだ。」と。

さて、これはどうでしょうか。

私はいずれも否定する。きわめておかしい!!

このような主張をする人は、結構いるのだ。困ったことに。

ダンマの顕現の実現者は、人格が法熟して、利他であるとか、慈悲があるとか、という。それを自認する人は、自らが過ちを犯したとき、大抵、次のような言い訳をする。
「無明、業熟体のために、そうなった。生きている限り、やむをえない」と。
また、「ダンマの熟し方が足りないために、無明・業熟体を影響されるのであって、もっと徹底すれば、その影響は少なくなってくるはずだ」と。

先にコメントを下さった方を対象にして、いっているのではなく、そのように考える人がたくさんいるのが現実で、その現実に対していっているのだ。

もちろん、そんなこと、ありえないのだ。
何度も言う。
終地を実現しても、その人はその人のままである。その人は、その人として考え、行動する。これが事実である。
その人から発するダンマが、人に影響を与える!?
魔法ですか?ありえません。
人格が円熟して、慈悲となる!?
ありえません!
その人はその人のままである。
たとえ、如来が中心となる状態、つまり、涅槃の状態で、慈悲喜捨の四無量心が体から放散しようと、その人の人格は別である。その状態のままでいることが利他と誤認してしまう。その状態が自我の働きが弱まって、如来が中心になっていることをそれが主役(如来として。如来が主役となって)として、日常において活躍することはありえない。そのように、その体験者が誤認してしまうのは、その体験の性質のためであり、きわめて危険なのだ。日常においても、自我が比較的静かであれば、如来の働きの状態を保つことができる。そうであっても、その人の主体は自我にほかならない。その働きが自我にほんのささやかな影響はあるとはしても、ほとんどないといってよいくらいのもの。だから、簡潔に、そのひとのままであるというのが、適当である。

終地の実現は仏道の基本の実現である。
その人は、その人のままに、如来と二人連れで、歩んでいく。これが仏道の基本である。
如来の二人連れであるから、接する人に、如来の影響を与えるということもありえない。それが影響を与えるという考えは、幻想である。

環境がその人の人格に影響を与えると心理学はいう。
だから、ダンマの影響も、その意味においては、あるともいえる。ただ、われわれはよく知っている。自身の人格が長年かかっても、そんなに変わらないことを。それと同じである。ダンマの影響を過大視するのは、まったくよくない。
たしかに、禅定において、ダンマの働きは凄まじい(特に、初心者はその実感が強く感じる傾向があるようだ。)。その凄まじさゆえに、それが強い影響があると短絡的に考えてしまうのは、まったくダメである。

浄土の住人になることは、現実の社会で生きるのは、好ましくないといった。
浄土の住人で生きるには、それが確保された世界で生きるのがよいともいった。
浄土の住人が、その浄土をこの世に持ち込むことは、人に有害さを撒き散らすことになりかねないともいった。
結界が張られた聖界で生きるのがよいのだ。結界を越えてはいけない。

結界とは俗と聖とを分けることである。その区別を無視してはならないのが、決まりである。

私は以前のエントリーで、臨床心理学の知見を借りて、聖から俗へ戻る場合、イニシエーションが必要になる可能性についても述べた。この体験にはそうした試練や危険もありうるだろう。

私は、人に仏乗を勧める。
それには、まず、人は、現実の世界に根付いている必要があると思っている。
だから、ごく普通の人の、ごく普通の信仰がもっともふさわしいと思っている。
ごく普通のの人たちは、大抵、バランスよく保っている。
それを基本にして、どんなに体験が深まっても、見失わないことが大切である。
だから、結界は、大地に楔を打ち込み、地盤をしっかりとしたものにしなければならないのだ。大地との結びつきが求められる。

お寺へ行き、本尊を拝む。われわれは大抵、それの奥の、超越的なものに向かって拝んでいる。
われわれは、超越的なもの・ダンマを実現した人の自我を拝む必要はまったくないし、すべきでない。
だから、宗教の教義というもものは、すべてそのような性質を含んでいる。絶対的なものなどないのだ。

ただ、誤解してはならないことがある。現実を重視するといっても、当然、現実を絶対視するのもまったくダメである。いうまでもなく。
私が、このブログで、現実、現実、自我、自我と強調するのは、この体験を重視する人たちが、これを軽視し、無視する傾向が強いことによる。

長々と書いてしまったが、私が言おうとしていることは、きわめてシンプルだ。
ダンマの顕現の体験しようとが、その人はその人のままであるということだ。
これは、決定的に重要なことだ。何度も強調しておく。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
カレンダー
07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
FC2カウンター
リンク
QRコード
QR
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

検索フォーム
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。