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自らダンマになることはありえない!

ダンマ・如来が中心になって働いている状態が、終地の禅定である。
この中心とは何であるのか。
それは、この体験によってのみ、知ることができる。
この中心をいくら頭で想像しようとしても、それはできない。
ダンマが働いていることが、そのまま、それを意味するからである。

終地が【自らダンマになることだ】という人がいるが、終地の禅定の実態からいえば、そのようなことは、まったくありえないことだ。

今後、このようなことをいう人が増えていくだろうと思う。残念なことだ。
そのようなことをいう人は、おそらく、自らダンマになりたいのだろうと思う。自らの願望をそれに夢見ているのだろう。ダンマになりたいということは、如来になりたいことと同じ。自ら如来になりたいのだろう。
原始仏典のブッダを如来と見なす人たちは、終地の実現をブッダになること、如来になることであると考える。そして、驚くべきことに、これを大乗の成仏と同じであると平然と言う。恐ろしいこと、この上なしである。大乗経典の言う謗法である。

大乗の仏と原始仏典のブッダは、決して同じではない。
ほとんどの人たちが同じであるかのような主張をしているが、きわめて残念なことだ。
このブログで、何度も繰り返しいわなければならないとは、本当に残念だ。

通じない人には通じないようなので、相手にするのはやめようと思う。ただ疲れるだけだ。イライラして、精神衛生上、よくない(笑)。

終地を実現すれば、原始仏典のブッダのように成れるのでは?と思う人もいるだろう。それはありえないと私は否定する。
なぜか、そのことはこのブログで何度もいっているが、また言おう。
終地を実現しても、その人はその人のままであるからだ。
玉城康四郎も終地を実現したが、玉城康四郎は玉城康四郎のままだ。あたりまえのことだ。
原始仏典のブッダに対し、絶対視したり、神格的に見たりするのは、自由であるが、そのブッダと同じ終地の実現が、ブッダになることであると、玉城仏教を学んでいる人が考えるとすれば、あまりにも、勝手な見方だ。終地の実態を無視した、勝手な妄想にすぎない。

終地がブッダになることと勝手に理解して、これを目指して努力している人に対し、まったく受け入れることのできないことを私は言っているわけだが、これは私の勝手な見解ではなく、玉城康四郎がそう教えていることである。
玉城仏教を学んでいるという人であるならば、なぜ、それを曲解して、自分の都合のいいように理解するのか、といいたくなる。

初心のまだ理解が浅い人が、そう考えてしまうのは、ありえるだろうが、長年学んでます、という人がそのようにいうのは、どうしても、納得できない。怒り爆発になってしまう(笑)。あんまりいいことではないが。

あーあー。嫌になっちゃう!どうしてなの!となってしまうのだ。
あー。疲れる。
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プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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