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スーフィの【神的われ】と玉城康四郎のダンマ

玉城康四郎ファンの人になかに、イスラム思想の権威である井筒俊彦さんの本を読んでいる人が結構、多いようだ。

私も、だいぶ前になるが、井筒さんの本は何冊か読んだ。熟読ではなく、斜め読みに近い形でしか読んでいない。あまり関心を持っていない。

ふと、いま思い出して、井筒さんの本をちょっと見てみた。井筒俊彦著『イスラーム哲学の原像』である。
スーフィズム(イスラムの神秘主義)についての解説である。

いま、再び通読する時間はないので、最も大事と思われる、意識の最も深いところの【シッル】についてのみ、見てみることにする。

スーフィは意識構造を五層とし、その最下層を「シッル」と呼ぶとある。
修行者がこの意識に達すると、【自我意識は完全に払拭される】とあり、この体験のことを【ファナー】と呼ぶ。
これは【絶対無】であり、【無我】である。
この【絶対無の自覚】が【「神的われ」、「神のわれ」の自覚】である。これを【バカー】と呼ぶ。
この実現により、【神的われ】は修行者の口を通じて、【われこそは神】と宣言するという。

井筒はこれをインドのヴェーダーンダの【われこそはブラフマン】の表現と同じであるといっている。
【われこそは神】を実現した修行者・八ッラージは、その宣言によって、神を冒涜するものであるとの俗人の無理解により、刑場に引き出され無残な死を遂げたという。

以上が、その概要である。

このことは、なるほど、と思う。
スーフィの【神的われ】の実現も、インドのブラフマン・アートマンの実現も同じであるだろう。そして、玉城康四郎のいう、ダンマの顕現の体験ももちろん、同じであるだろう。

アートマンの実現が、【無我】の実現である。このことは、ラマナ・マハルシも言っている。玉城康四郎も同じだ。ダンマが通徹し、自我が消滅している、と。

自我消滅とダンマの顕現はまさしく、同じである。だから、玉城は、木っ端微塵の大爆発の体験として表現するし、自我が絶滅しているとか、ダンマが通徹しているかと表現するのである。

このような【無我】の実現が【涅槃】の実現であるわけで、ことばは違っても同じである。

よって、この体験の自覚によって、【われは如来なり】というような宣言がありうるのではないかといえそうである。

しかし、私はそのような自覚の上で、その宣言は、【自我肥大】であると見なす。
なぜなら、この体験は、真実にそのとおりに体験されるとして、その圧倒的な体験、または力によって、自身を見失ってしまうからである。自身を如来となってしまったかのように見なしてしまう。ここに大きな陥穽がある。

ただ、このようにいうと、誤解が生じるかもしれない。
この体験を得るのに、自我を残しておく必要がある、と私は決して言っているのではないことを強く強調しておきたい。自我が絶滅してしまうようでなければ、その体験は本物ではないからである。そのことは、改めて言うまでも無く、玉城康四郎が著書で述べているとおりである。

この自我消滅の体験は、そのまま自我が働かなくなったことを意味しない。このことはきわめて大事である。そのことを以前のエントリーで何度も説明した。

私のこの主張は、一見、矛盾しているかのように見られていしまうかもしれないが、よくよく読んでみれば、ある程度はわかるのではないかと思っている。

ともかく、実践の上では、シンプルに、自我消滅の、ダンマの顕現を得ることに専念すればいいだけのことであって、これにわざわざ説明する必要性はほとんどないだろう。ましてや、玉城康四郎は詳しく説明している。

自我消滅しているはずの人が、なぜ、確信という自我の働きをするのか、自らダンマになるというのか、きわめておかしなことである。

ダンマ・如来が中心になって働く状態の実現が大事である。これがしっかりと定まれば、その実現を【終地】といってよい。
このとき、自我は中心的役割を積極的に果たしているわけではなく、如来が中心となっているわけであるが、それでも、自我は働いているのであって、【如来の働きの状態にある自我が働いている】ということなのである。
これを文章で説明しても、この体験のない人は、勝手に解釈して、理解してしまうので、あまりよいことではない。
そうであるから、何より、大事なのは、自我消滅するダンマの通徹こそ、必死になって取り組むことが大事なのである。実践の上では。

終地の実現しても、それは仏道の基本にすぎないという。
『法華経』の説いているように、本当の到達先は、はるかに先にあるのである。
それを受け入れることができないのであれば、終地を目指して努力すればいいだけのことである。

私は仏乗に基づくので、今後のこの道を歩もうとする初心の人に対し、仏乗に基づくべきであると勧める。
だから、適切に、発心すべきであり、終地を最上としてはならないという。

ただ、誤解してはならないのは、玉城康四郎も言っているように、終地の禅定は、これ以上のないほどの徹底したものでなければならないことを十分に理解しておかなければならない。ほんのちょっと何か、ダンマのようなものを体験したことを過剰に重大視して、悟りを得たと喜んでいてはまったく意味のないことである。
終地を実現しても、まったく大したことではないのである。過大に評価してはならないのである。

繰り返すが、終地の禅定は、自我が消滅したダンマの通徹でなければならい。これ以上のないほどの徹底したものでなければならない。
その上で、私が【その実現しても、自我の働きがある】という本当の意味が、その体験の上で、学ぶ必要がある。結局、本当の意味の理解は、終地の実現なしには得られない。

あれこれ頭で考えても、勝手な解釈するより、仏乗に基づこうとし、適切に発心することをまずはお薦めする。これがきわめて大事であると思う。
そこから、実際の実践を開始していくのがよいはずである。大乗経典はそう説いているはずである。

終地の禅定は、玉城康四郎のいうように、これ以上のないほどの徹底したものである。仏乗に基づいて発心し、最上である終地の禅定を実現し、それは仏道の基本の実現に過ぎないと思い、そこから、ごく普通の人がごく普通の人のままに、如来とともに歩むという、仏道の歩みがはじまる。その目指す先は、はるかなる究極の到達へ(大乗の仏と成ること)と向かって、無限の時間をかけて歩んでいくことである。それが仏乗なのであって、仏道はそれしかないのである。
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プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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