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自我の姿勢

 ともさんという方が次のようなコメントを下さった。【覚った人というのは如何なる人なのでしょうか。わたしはありのままの自分がわかった人、即ちわたしを取り巻くあらゆるご縁のありがたみをありのままに受けとめる人だと思います。】

当然、私はこれを完全否定したわけであるが、せっかくの機会なので、少し、これについて考えてみることにする。
このコメントは、お坊さんなどがよく口にするフレーズで、世間でよく聞かれることばである。特別、批判の対象でないと思われるかもしれない。
しかし、私はこれを完全否定する。

「ありのままの自分がわかる」というようなことはありえない。終地に達しても、如実知見することなどできるわけではないからである。その人はその人のままである。これが事実である。
この事実を無視し、否認し、自我はダンマの直接体験によって、自我肥大を起こし、万能感を持ってしまう。「ありのままに物を見ることができる」と思ってしまう。ダンマ・如来こそ、「ありのままに物を見ることができる」のであって、ダンマが顕現した状態の自我がそのようなことができるはずもない。自我肥大となった自我は、まるで如来であるかのように振舞う。
自我は絶滅しているから、如来なのであるという自覚は、まさしく、自我肥大である。自身の存在を見失っているのである。
もちろん、自我絶滅したダンマの徹底でなければ、その体験は本物ではない。このように本物の体験であっても、いや、そうであるからこそ、この危険の陥穽があるのだ。

先のコメントには次のようにある。悟りの体験者は、【わたしを取り巻くあらゆるご縁のありがたみをありのままに受けとめる】と。これも大変危険なことばである。
縁をありがたいもの受け止めること自体が、エゴの肯定を意味するのではないか。そのことに無自覚であることはきわめて恐ろしいことである。
仮に、ある人が、いまの縁に満足しているとしよう。それは、たまたま、そのようになっているだけのことである。にもかかわらず、それを如来のお力によって、そのようなご縁を頂いているというように、自身の都合よく、解釈してしまう。そのように日々、自己のエゴを無自覚に肯定し続けていくことは、自我の肥大化を招くだろう。

縁は、たまたま、そうなっているだけのことであって、それを自身の都合よく解釈して、それをひたすらに肯定していくことの利己性に気づかないことは、まったくよくないことである。そうではないか。

ともさんという方は次のようにいっている。【常に潜在的に抱えている無明によって過ちをおかすであろうわたしを内省する役割をもつ戒、十善戒などはあまり重要に思われていません。十善戒を毎日意識して過ごすだけで、ずいぶんと心の平和が感じられるかと思うのですが。仏道の基本である三学「戒ー定ー慧」の最初の戒も守れていないのに、終地も自我肥大もないように思われます。戒は現実的に出家・隠遁生活でも送らない限り、普通の生活では完全には守れないとは思いますが、実は守れないという反省が重要なのだと思います。】

私はこれも当然、完全否定する。
この人の先の主張は次のように言い直すことができるだろう。「十善戒を守っていれば、心が平安でいられる。それを守らずに、禅定を学んだところで意味はない。戒を守っていれば、自我肥大を起こすことなどありえない。潜在する無明によって、われわれは罪を犯してしまうが、それは反省するよりほかない。」と。

この人の独自の考えであるので、別に、私には関係のないことであるが、玉城康四郎は、戒について何か述べたことはほとんどないので、玉城康四郎が先のコメントのようなことを述べているなどという誤解があってはならないので、念のために言っておくことにする。玉城康四郎は、長く、親鸞の教えに傾倒していたようだから、戒について語らないことは十分頷けることである。

十善戒を守らなければ、仏道を行ずることはできないとは、あまりにも酷い曲解である。

私は戒に関心を持ったことはない。これからも、それに関心を持つこともないだろう。

ごく普通の人間としての常識を具えることが、社会人として必要なだけであり、仏教の信仰者だから、特別な戒を持つ必要性を私はまったく感じない。
戒を正しいものとして教条的に守ることは、私にはまったく無縁である。

正しい考え、行為をしていると自ら安心してしまうことこそ、怖いことであると思う。私は「正しい」ということばを常に怪しいものと思っている。信用できない。

われわれは常に、潜在的な、業や無明によって、われわれは間違いを起こしてしまうのだ、というような理解は、あまりにも一面的であると思う。
業熟体や無明のせいにするのはよくない。自我の追うべき責任を無明・業熟体に責任転嫁してはならない。
もちろん、自我が自身のすべての行為の責任を持つというわけではない。そのことを心理学は無意識の存在の説明で、われわれにそれを教えてくれている。
個人的無意識、普遍的無意識によって、われわれはかなりの影響を受けてしまうこともあるだろう。このことについては、心理学の分野である。仏教はこれについて無知である。

玉城康四郎は、心理学のいう無意識よりも深い存在、われわれを存在有らしめている根源体を業熟体と呼んだ。
もう一度、玉城の、業熟体の説明を確認しておこう。
「業熟体とは、限りない以前から、生まれ替わり死に替わり、死に替わり生まれ替わり、輪廻転生しつつ、そのあいだに、生きとし生けるもの、ありとあらゆるものと交わりながら、いま、ここに実現している私自身の本質であり、同時に、宇宙共同体の結び目である。もっとも私的なるものであると同時に、もっとも公的なものである。それは私自身でありながら、その根底は、底知れぬ深淵であり、無明であり、無智であり、黒闇であり、あくた、もくたであり、黒々とつらなっていく盲目の生命体である。それは私自身であると同時に、宇宙共同体である。」http://www.geocities.co.jp/noboish/case/syukyoka/tamaki2.htm参照。

玉城康四郎は、最晩年、『仏道探究』のなかで、「無明・業熟体のために、うっかり我執が跳び出してしまうことがある。ダンマ・如来はそれを押しとどめてくれる。」(趣意)と述べている。
私はこの玉城の受け止め方を批判する。たしかに、そのようなことはあるとしても、この玉城の自我の姿勢がまず問われるべきであると思う。玉城のこのような受け止め方は、玉城の自我が如来と業熟体の間で、引き裂かれて、うまく対応ができていないように思える。
しかし、その玉城は、その一方で、「我執はなくならないのだ」と強調してもいる。前者と後者とで揺れ動きがある。われわれはそういうものであるという自覚が、不徹底である。また、我執というものを自身と切り離している。われわれはそれ自身であるというのに。玉城に、その自覚を得るために必要な探究の時間が残されていなかった。きわめて残念なことであった。

玉城の志を継ごうとする者は、ここを乗り越えていかなければならないだろう。そこから、新たな探究が開始される。玉城仏教の次なる進歩はその点の克服は必要不可欠であると私には思える。

私が以前のエントリーで、無明・業熟体に責任転嫁することはよくないという意味はその点にある。特別、難しいことでない。単純、素朴なことである。

玉城康四郎を絶対視してしまうと、私の主張は「なにをバカな」と完全否定されることになる。それを承知して書いているが、玉城の現実をよく直視して、玉城のいう終地の実態を究明していくことは、この道を学ぼうとする誰にとっても、大事なことではないかと思う。
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プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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