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終地って、何?

終地とは玉城康四郎先生が実現した最高の境地。原始仏典のブッダもそれを実現したし、仏弟子のサーリプッタも実現した。玉城先生いわく、誰でも、それを実現できる。

禅定でいえば、ダンマの放散するほどに、ダンマに習熟した境地のこと。これをダンマの相続者であるという。
ダンマに習熟すると、禅定に入っているときだけでなく、日常においても、ダンマの働いている状態でいることが可能となるといいます。これを玉城先生は「如来と二人連れ」と呼んでいます。如来はダンマのことです。このような状態に達することが終地ということになるようです。

如来と私の二人連れで仏道を歩んでいくことが、終地の仏道であり、それが仏道のはじまりであるともいっています。
「私」は存在するのですから、我執、無明の、元の木阿弥の自分のまま、業熟体のままに、如来とともにいることを表しています。
生きている限り、無明・我執はなくならない。その無明・我執の私にこそ、ダンマが顕わになる。つまり、ダンマは業熟体に顕わになる。業熟体は底が無く深い。底なしの業熟体にこそ、ダンマは働いてやまない。ダンマの無限活動。業熟体にひたすら働いてやまない。われわれはそれに気がつかないだけ。本来からそうなっている。だからこそ、われわれはダンマの働きによって、その働きを実感することができる。

終地の実現は、超人、聖人となることではなく、元の私のままに、如来と二人連れとなって、仏道を歩んでいくこと。終地の実現がブッダになることだと理解していると、的外れとなってしまうでしょう。
元の私のままに、如来と二人連れとなることが、仏道の基本であり、これが仏道の出発点となる。この理解はきわめて大事なことであると思います。
詳しくは、玉城康四郎著『仏道探究』を読んで下さい。
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プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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