アビラの聖テレサ、「恍惚・歓喜」の神秘体験

アビラの聖テレサは、スペインのローマ・カトリック教会の神秘家であり、修道院改革に尽力した人物である。カトリック教会・聖公会・ルーテル教会で聖人。イエズスのテレジア(Teresa de Jesús)としても知られる。
『ウィキペディア(Wikipedia)』より。

神秘体験者である彼女の体験はどのようなものであったのだろうか。
『ウィキペディア(Wikipedia)』によって、以下、見てみよう。

テレサの全著作を通じての神秘思想の要点は、4つの段階を経る魂の向上である(『自叙伝』第5章22節)(訳注:この段階については諸説があり、必ずしもここでの説明が全てではない)。

その4つの段階は次のようになっているという。
第一段階の「瞑想」、第二段階は「静寂」、第三段階は「合一」、第四段階は「恍惚あるいは歓喜」。

第四段階は「恍惚あるいは歓喜」について、『ウィキペディア(Wikipedia)』より、以下、引用しよう。

第四段階は「恍惚あるいは歓喜」(devotion of ecstasy or rapture)という受動的な状態であり、ここでは身体が存在するという感覚が消滅する(「コリントの信徒への手紙二」12.2-3)感覚の働きが消えるということは、つまり、記憶や想像力までもが神にすっかり夢中になってしまう、あるいは、酔ったような状態になってしまうということである。身体と精神は、甘美な激痛、幸せな苦痛、恐ろしいまでに激しい輝きと完全な無能・無意識との間の交替現象、そして、しばしの窒息状態の中に置かれる。そしてそれは、身体が文字通り宙に浮く恍惚の浮揚のような現象によって時々中断される。半時間ほどこうした現象が続いた後、数時間の気絶のような衰弱状態の中で反動の弛緩を味わう。この時、神との合一の全ての働きを否定する気分を伴う。ここから、主体は自分の涙に気付く。つまりそれが神秘体験の絶頂、恍惚状態の創出なのである。

甘美な激痛、幸せな苦痛を除けば、彼女のそれは、玉城康四郎のいうダンマの顕現の体験に似ているといえる。
「身体が文字通り宙に浮く恍惚の浮揚のような現象」については、ちょっとどうかな?気がする。人によって、そのような感じはあるのかもしれない。仏教の禅定の、身体が軽安となることに相当するかもしれない。

身体や感覚の消失した、ダンマの顕現の【大爆発】はそれに似ているだろう。その絶頂状態から次第に醒めて、涅槃の安楽に留まるわけであるが、それもまた、次第に醒め、元の日常的な状態へと戻るのである。この体験も彼女のそれも同じようである。
彼女のいう「この時、神との合一の全ての働きを否定する気分を伴う。ここから、主体は自分の涙に気付く。」は意味がわからない。どのような意味なのだろうか。

それはさておき、両者の体験はとても似ている、というより、同じではないかと思う。ダンマの顕現の体験が、宗教の枠を超えた普遍的なものであるという玉城の主張の妥当性が、アビラの聖テレサの「恍惚・歓喜」体験を検討してみると、そのなかのひとつとして確認できるであろう。

以前のエントリーで説明したとおり、スーフィの【ファナー】も、アビラの聖テレサの「恍惚・歓喜」体験も、ラマナ・マハルシの【アートマンの実現】も、仏教のダンマの顕現も、みな同じであることがわかると思う。宗教の根源はこの体験にあるのだ。玉城康四郎はそのことを力説した。


ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ作
サンタ・マリア・デッラ・ヴィットリア聖堂 コルナーロ礼拝堂
天使の持つ神の炎の矢で胸を衝かれるアビラの聖女テレサ(イエズスの聖テレジア)
http://yaplog.jp/raguan/archive/148より。
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プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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