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阿字観について検討してみる

阿字観について検討してみよう。

ネットで検索してみたところ、阿字観について、詳しい解説するHPが見つけた。
以下、その説明する阿字観とダンマの顕現の体験との違いについて検討したい。
阿字観・実践編 [高野山真言宗 那須波切不動尊 金乗院]

まずは、阿字観とは何か。その説明は以下引用する。

最終段階となる阿字観は、 自身の根源である宇宙と、 宇宙の真理の現れである 大日如来との一体感を観想し、 御仏の慈悲の心を観じる瞑想法です。阿字観では、大日如来の世界に同化した自身と 大日如来の心そのものになった自身の心を観想します。


【大日如来との一体感を観想し、 御仏の慈悲の心を観じる】とある。
また、【大日如来の世界に同化した自身と 大日如来の心そのものになった自身の心を観想します。】と。
禅定の基本からいえば、上記のことは、まったく意味不明であり、きわめておかしい。
そのようなものは観ずることはできない。できるのは、【観】があるのみである。

次に、その実践の具体的な説明を以下に引用する。

正観が進み、上級(誤ると危険ですから 必ず師に付いて学びます)になると、 胸中の月輪を しっかりと観じてからこれを段々と拡大していきます。 このことを広観といい、自身が月輪となって 最終的には宇宙法界 (宇宙の万物を包含する全宇宙)にまで拡大し、宇宙法界が自身となるのを観じます。この境界に暫く住してから余り疲れない内に、順次 月輪を縮めて胸中に収めます。 このことを斂観といい、 眼を閉じたまま最後に元の位置に返し 本宮の浄土へ送り奉ると観じます。 阿字観は悟りと同じで、 たとえ神秘的な観想に至ったとしても、それに捕らわれてはいけません。日々の精進のなかで、ひたすら修することが阿字観の極意です。


【広観】とは、【胸中の月輪を しっかりと観じてからこれを段々と拡大していきます】ことをいい、【自身が月輪となって 最終的には宇宙法界 (宇宙の万物を包含する全宇宙)にまで拡大し、宇宙法界が自身となるのを観じます。】と説明する。

上記のものは、玉城康四郎が説明する禅定とは、まったく相容れないものとなっている。
ダンマを観想することはできないし、ダンマを拡大することもありえない。また、ダンマが自身になるということもありえない。

私が考える阿字観の本当の意味は、みなさんもお分かりのように、次のようになるだろう。
【胸中の月輪】とは本来の意味は、【心(しん)】であり、【ひとかたまり】であるだろう。その【心(しん)】であり、【ひとかたまり】に【ダンマ】が顕現する。
それが本当の【広観】であろう。

ダンマの顕現をイメージとして表現しているものといえそうである。
ダンマの顕現が本来の意味であると私には思えるが、阿字観が行道の実践として意味がないとはいえないのは、もちろんのことである。それはそれへ到る手立てのひとつであろう。

大乗の観仏も、イメージするわけだから、両者はその点、共通している。
その手立てによって、ダンマ・如来を実感するようになることが大事であるといえるだろう。
呼吸法もまたそうである。それも手立てのひとつでしかない。禅定を身につけるための手立てにすぎない。呼吸法は最高の修行法であるという人がいるが、いつまでも、それにしがみ付いているのはまったく変であるし、私はそれが最高だとは思わない。自分にあったものを実践するのがいちばいよいのではないかと玉城康四郎はいっていた。そうではないか。

大日如来・法身は、いうまでもなく、心に思い浮かべることはできない。また、自身が法界になることはできない。
自身において、ダンマが顕わになるだけである。自身を貫いて、法界だけがある。それが涅槃・浄土である。
これが本来の【観】であり、【観】が【如来】なのである。

だから、確信とか、確信できないとは、まったく的外れなことである。
【如来】は【ただそこに居るだけ】である。その【そこ】とは<そこ、ここ>の<そこ>の意味ではない。【ただ在るだけである】。その【在る】も、イメージする<在る>ではない。言葉を超えているのである。

この禅定がしっかりと身についたとき、それが【終地】である。
その終地となっても、正しく観察できるわけではまったくない。
その人のままであるから、その人が観察しているのである。
ダンマに習熟すると、日常においても、如来とともに居ることができる。
初心の頃は、禅定において、自我の働きをできるだけ静める必要があったかもしれないが、熟達すれば、自我がある程度働いていても、【如来の働きの状態】を保つことができるのである。日常においても、そうしようと思えば、ある程度できるのである。

このことが【如来の二人連れ】の意味である。
この実現は、ごく普通の人がごく普通のままに、如来とともに仏道を歩んでいくことを意味する。
だから、特別なことはないのである。仏道の基本の実現にすぎないのである。
繰り返しいうが、この実現を得れば、聖人のようになるわけではまったくない。もし、そうなれると思っているならば、それはその実態を無視した願望投影にすぎない。きわめてバカバカしいことである。

仏道の基本の実現を目指すことが何より大事ではないか。それを無視して、聖人になりたいと思うのは、あまりにも現実離れしすぎている。そうではないか。

ごくごく単純に、純粋に、如来を信仰するのがよいと思う。
教義に惑わされることなく、純粋でいいと思う。
ごく普通の、信仰心でよいのではないか。それが大事ではないか。私はそう思う。
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プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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