マザー・テレサの祈り、神の愛、仏教の極愛一子地

マザー・テレサ (著), ブラザー・ロジェ (著)『祈り―信頼の源へ』を本棚から取り出し、パッと開いたところを見てみた。
そこを引用させていただこう。

わたしたちはすべて
  神にとってかけがいのない者
道端で死んでゆくあの男の人も
  神にとってかけがいのない者
あの百万長者も
  神にとってかけがいのない者
あの罪を犯してしまった人も
  神にとってかけがいのない者
神は わたしたちを愛しておられるのだから

この、わたしたちへの神の愛を理解するためには、祈りが不可欠です。
もし、真剣に祈りについて考え、祈りたいと望むならば、今すぐ祈り始めなければなりません。
それは祈りへのほんの第一歩ですが、今、決心して、その第一歩を踏み出すことなしに、その最終地-神の現存-に到達することはできないのです。


以上、引用終了。

本当にすばらしい言葉である。
マザーテレサのこの祈りは、仏教の念仏・禅定にも通じるものである。
神の愛はすべての人に注がれている。神はすべての人を愛しておられる。
仏教も同じことを説く。
極愛一子地。如来はあらゆる人たちを我が独り子のように愛する。
一闡提という極悪人すら如来はわが独り子のように愛する。
極愛一子地とは如来であり、仏性であり、法身である。

極愛一子地については、緯線のエントリーで書いたので、興味のある方は参照下さい。
極愛一子地 - パンの仏道日記
原始仏典の釈尊と極愛一子地の菩薩、提婆達多と善星 - パンの仏道日記

【わたしたちへの神の愛を理解するためには、祈りが不可欠です。】とマザー・テレサはいう。
同じく、仏道でも、如来の極愛一子地を知るためにも仏道の実践が不可欠である。
如来を体感して知ることが大事である。
ダンマ・如来が貫き、放散されるようになる。そのしっかり確定した境地が終地であり、それを原始仏典に登場するブッダの四無量心の放散であると玉城康四郎は説明した。

終地は極愛一子地ではないことは以前のエントリーでも説明した。
終地の実現者は、その後、極愛一子地の菩薩となるために、ひたすら仏道の実践されていく。
極愛一子地の菩薩は超人的で、普通の人間には縁がないとごく普通に生きるわれわれにはそう思える。それは究極の理想像といえるのだろう。

われわれは現実にそのような菩薩にはなれなくても、極愛一子地が何であるかは、われわれの全人格体でもって知ることができる。そのためにこそ、行道の実践が不可欠である。
その実践によって、われわれは誰でも、玉城康四郎のいう終地に達することができる。

終地は仏道の根本・基本を実現したにすぎない。それはその人がその人のままに、如来とともに仏道を歩むことである。これが仏道の根本である。

終地の実現者は発心し、如来となることを目指して歩んでいく。あるいは、極愛一子地の菩薩となることを目指して歩んでいく。あるいは、浄土に往生して、そこで暮らして、ついに成仏を目指すという道もある。

マザー・テレサは【もし、真剣に祈りについて考え、祈りたいと望むならば、今すぐ祈り始めなければなりません。】というように、
仏道を歩もうとするわれわれも、如来を直接体感したいと望むならば、いますぐ、行道の実践を始める必要があるのではないだろうか。
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プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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