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第八地の教説の解釈

『十地経』第八地の概要の続きです。今回はその解釈です。

(以下、5年まえに書いたものです。手直しせずに掲載します)

第八地の教説の解釈

 以下、経文の解釈をしていきたいと思います。

 終地を実現した者が未来へと一歩踏み出していくという玉城康四郎氏の説明は、『十地経』では、無生法忍を実現して安堵してしまうことなく、仏智の実現へと向かって踏み出していくことに相当すると考えてよいのでしょうか。この教説はきわめて重要でありますので、詳しく見ていくことにしましょう。

 無生法忍の悟りとは終地の禅定を指すと先に述べたとおりです。終地の禅定の実現(終地の禅定が安定して身についた)を諸仏は褒め称えますが、それは智慧を実現しているわけではない、仏のような利他を行う力があるわけではない。如来のそれを求めで求道すべきであるといっています。

このことは、ダンマが貫き、放散する、最上と思える禅定を実現したとき、その人は、智慧があるわけではない、利他が行えるわけではないという、現実に根ざした自我の働きによって、それを自覚することができるかどうかを問題にしています。この自覚がないとき、まったき涅槃に入ってしまうと経典はいうのです。真如は声聞や独覚でも到達するのであり、菩薩がまったき涅槃に入ってしまうのであれば、小乗のあり方と同じであり、仏智を目指そうとすることがなくなってしまう、発心ができなくなってしまうというのです。

 この自覚は最低限必要なこととしているのです。それができなければ、涅槃に安住してしまって、仏の声をも無視するような状態に陥ってしまうというのです。このことがユングの言う自我肥大に陥った状態であるといえるでしょう。既に悟り済まして、これ以上もとめず、道の完成者であるなどと自認するからです。

 経典は終地の実現が誰にとっても、常に、そのような危険が存在すること教えているようです。というのも、経典は、諸仏がその修行者の前に現れて、その危険を警告し、仏智へと向かうように指導しなければ、その修行者は安心してしまい、涅槃に安住してしまうであろうといっているからです。その危険があるからこそ、諸仏は修行者の前に現れて、そのように促すのであるといいます。自我肥大に陥った状態は諸仏のそのような声さえ聞こえなくなってしまっている危険な状態を意味するでしょう。自身が自身であることを忘れ、仏となってしまっているのです。

 続いて、経典は、その修行者に、現実的な思考を働かせることを促します。それは、諸仏が、仏智を実現しているわけではないと自覚を得ている修行者に対して、三界を観察するように促していることがそれに相当します。経典は、世界はさまざまあるけれども、大別すると、浄土と穢土であるといい、修行者はそれを明確に区別して知る必要があるというのです。

 終地の禅定を実現し、その禅定の世界とは、浄土であり、涅槃です。終地の禅定の実現は、この身が穢土にありながら、そのまま、浄土であり、涅槃の実現となっているのです。いわゆる、生死即涅槃です。それが無生法忍であり、それを現実の身で実現することを生身得忍というのです。この状態は、両者の区別を失うほどに浄土・涅槃に徹底しているということがいえるわけです。しかし、ここで、そのままのあり方の徹底さに身をおいたままに、その悟りからはなれることをしないと同時に、涅槃と現実を明確に区別できていることが必要であると経典は教えています。如来と徹底して一体化しつつも、自我の機能である区別する働きを失ってしまってはならないというのです。

 たとえば、終地の禅定を実現し、如来の働きに徹底し、まるで如来の働きに従うことができるようになっていると実感するとき、如来の働きに従っているのだから、私が考えることは正しいとか、利他であるとか考えて行動することは、両者を明確に区別することができていないことを表していることになります。自我が自身の住みかである現実の世界を無視し、如来と同一化することで、浄土の住人となってしまっていることになります。涅槃に安住しているのです。その状態にいるから、正しいとか、利他であるとは限らないのであり、それを判断し、行動しているのは、当然、「私」にほかならないのです。無我と思えるほどその体験に徹底していると同時に、「私」であることを自覚していることが必要であるのです。如来の働きに従うことは仏道の根本姿勢でありますが、それと同時に、自らが考え、行動しているという強い自覚が必要となります。そうしないと、如来の働きでいれば、世の中のさまざまな問題は解決するという非現実的な考えに支配されるようになってしまいます。その考えが通用するのは、この世ではなく、あの世です。

 続いて経典は、世界に住む衆生の身体は、さまざまあるとし、衆生身、業報身、国土身、声聞身、独覚身、菩薩身、如来身、法身など(経典には、その他の身体も説きますがここでは省略)の違いがあるといいます。その涅槃と現実の区別ができているからこそ、その身体の違いを知ることが可能となるというのです。

 終地の禅定を実現した者の身体はどうであるのでしょうか。それはもとの「私」であり、衆生身、業報身、国土身であるといいます。このことを忘れたり、無視したりするようなことになってしまってしならないというのでしょう。

 たとえば、原始仏典の言う終地の禅定の実現が、業熟体(業異熟、業の果報)が絶滅して、法身となっている状態であるという主張とは違っていることになります。『十地経』では、修行者は三界を観察し、身体がさまざまであることを知っているのであり、自らの身体を衆生身、業報身、国土身であると強く自覚しているのです。この自覚がないとき、その人はまったき涅槃に入ってしまっていると『十地経』は説明していることになります。ちなみに、このことを『勝鬘経』では、意成身は絶滅しているわけではないということによって説明しています。ダンマが身生を貫き、それと一体となっているような徹底した禅定状態を実現しているとしても、意生身は絶滅しているわけではないというのです。その自覚があってこそ、仏乗であると『勝鬘経』は説明しています。

 『十地経』の説明に戻ります。では、声聞身、独覚身、菩薩身、如来身、法身についてはどうでしょうか。この身体の違いは、教えのあり方の違いを表しています。菩薩乗と小乗の違いは、発心するか否かであるとよくいわれています。発心とは、周知の通り、仏に成ることをめざす心を起こすことです。仏智の成就の実現をめざすかどうかということです。もし、原始仏典の言う終地の境地を最上であると考えてしまうとき、声聞乗、独覚乗ということになり、まったき涅槃に入ってしまっているということになります。終地の禅定の実現は、業熟体・意成身が絶滅したわけでもなく、法身が成就したわけでもないということを自らよく知っているということによって、それらの教えのあり方の身体の違いを区別することができるというのでしょう。法身成就とは、如来身のことを指しています。法身とは、不生不滅、因縁所生のものではないものでありますが、仏道の実践によって、因縁所生のものである身体が消滅、または、変容して法身そのものとなることによって、如来身が実現するというのです。その身体を報身といいます。そのために如来身は因縁なくして生じないと説いているのです。報身の実現が大乗のいう成仏であり、仏智の実現であり、法身の成就ということになります。その実現のためには、この生をこえた極めて長い時間を要すると一般の大乗経典は説明するのです。

 このことを自ら理解することによって、身体の違いを知ることができると経典はいうのでしょう。この身体の違いを知ることができたことを前提として、次に、その者は、身体の自在さを得るといいます。相手の道心を知って、自らの身体を相手の身体と同じく変現することによって、教化するというのです。

 ここで、教化という仏道の利他が開始されるといいます。ただし、次の境地である第九地の法師の境地(善慧地)に達することができてこそ、法師であるといっていますから、ここでは、法師となるための準備段階であり、初歩であるということになるでしょう。第九地の法師の能力とは、相手の道心のみならず、相手のさまざまな個性を的確に観察し、それに応じて適切な対処をすることであるという趣意のことが述べられています。ですので、第八地の段階においては、その能力を持つとは考えていないことになるでしょう。そのために、第八地では、相手の道心を知って、それに応じた対処に限定していると解釈できます。

 道心とは、先の教えのあり方を指すでしょうから、身体の違いを知り、身体自在を得た者は、教えのあり方の違いを知っていますから、それに応じた対処は可能であるといっているのでしょう。もし、終地の禅定を実現したとしても、身体の違いを知ることがなく、まったき涅槃に入ったままに、如来の働きに従って説法教化することは、相手の道心に応じた身体自在さによる説法とはなっていないということになります。如来の働きに従い、考え、話しをしても、先の教化さえ可能となっているとは限らないということになります。そうであるにもかかわらず、慢心してしまい、如来の働きに従っているから、利他であると考え、行動することは全く相応しいことではないと経典は見做すことになるでしょう。

 経典は、この身体自在さを得ているからこそ、相手の身体をも変化させることができるといいます。法師となるための前提として、この身体自在を得ることを必須の条件としているのです。このことは、『十地経』のみならず、他の大乗経典においても同じく説いており、大乗の教説にとってきわめて重要事であるということになるでしょう。この身体自在についてはまた後で述べたいと思います。

 では、第八地の身体自在さを得た者が法師となるためにはどのように学んでいけばよいのでしょうか。第八地の菩薩行を行じていくことで、第九地に進んでいくことができるといっています。それは先に述べたように、無生法忍から離れてしまわないこと。仏智の実現に向かい求道すること。衆生の道心に従って身体を変容して衆生を教化すること。行住坐臥、如来の働きに従うことなどとあります。おそらく、相手の道心に応じた対処の実地の体験を通して、みずから、教化とは何であるか学び、探求し、身につけていくことを求めているのではないかと考えられます。
 また、行住坐臥、如来の働きに従うとは何であるかというと、実際、禅定に習熟することによって、日常においても、如来の働きをともにいることがある程度可能となりますから、その状態を表しているといえるでしょう。

 如来の働きとともにいる状態でありながら、相手と話をすることは実際に可能であるのですから、第八地の身体の自在さを得た者は、その状態でいながら、相手と対面するということになります。如来の働きに催されて話すのであっても、それは如来が話しているのではなく、「私」が考え、話しているのであるという強い自覚が必要であることは先にも述べたとおりです。もし、如来の働きに催されているのであるから、そのとき働く判断は正しいと考えてしまうのであれば、全く不適切なことになってしまいます。

 以上のことから、相手の身体の変化という仏道の指導のためには、指導者が如来の働きとともにする状態であるだけでなく、合理的な姿勢によって、現実を検討する自我の機能が適切に働いていることが最低限必要であるということになります。それなしでは、涅槃に安住しているのであり、相手の身体の変化につながるとはいえないことになります。この世ならぬ涅槃の世界を体験しながらも、現実の世界の人間であることを忘れず、合理的な思考をもって対処していくことが大事であるということになります。『十地経』はそのように説いているということができるでしょう。
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プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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