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カストラート、共時的出来事

前回、カッチーニ作「アヴェ・マリア」、カストラートを紹介しました。
今回はわたしが以前、体験した共時的出来事を紹介します。「見捨てられ」について考えてみるのはよいことかもしれません。

(以下、5年まえに書いたものです。)

〈共時的出来事2 見捨てられの象徴 2003年12月末〉

「03年12月末、私は元型的心理学のなかで最も先進的であるといわれるギーゲリッヒについて知ってみたいと思い、河合俊雄著『概念の心理療法』に詳しいというので、それを購入するため、書店へと出かけました。そのとき、象徴的な出来事に遭遇します。ある店先でCDの販売をしていました。そこでは、女性によるオペラが演奏されていました。宗教音楽のようでもありとても美しいのですが、その一方で、非常に悲壮感の漂うものでした。その調べのあまりの美しさに心を奪われ、そのまま聞き入っていたのですが、その店先にいた若い男の店員が椅子に深くもたれかかって、その調べに包まれ、わなわなと体を震わせている様子を目にしました。おそらく、その調べに浸って深い感動に身を震わせているようです。わたしはそれを見て、次のようなイメージが強烈に浮かんだのです。それは、過去のヨーロッパにて、ある貧しい若者が信仰を持ちつつ、生きるために必死に生きてきたが、ついには、すべてに見捨てられて力なく、いま絶望のなか死んでいく様です。信仰を持ち、良心に従っていきているにもかかわらず、神は助けず、いま、絶望の中で死を迎えようとしている。しかし、そのとき、近くの教会から、この美しい調べを耳にする。彼はその音に包まれ、いままさに死を迎えようとするなかで、神に包まれて、深い安らぎと静寂のなかにいる。深い悲しみとともに、神が包んでいる様子がイメージされてきたのです。私のその空間は聖なる空間となっていて、その深い悲しみと、神の静寂をともにしたのでした。私はしばらくその空間にいましたが、その調べの美しさのあまり、そうそうぜいたくをできるわけでもないのにもかかわらず、CDを購入することにしました。私はその購入のためにその店員に声をかけました。もはや、その聖なる空間は破られてしまうのです。店員と客という現実の世界へと戻るのです。私はいつでも、如来とともにしようとすれば、すぐさまそれが可能ですので、今回の聖なる空間となることが特別な体験であるというわけではありません。ごく普通のことです。ただ、今回はイメージされてきたその深い悲しみが私の心を打ったのです。私はそのことを遠くに忘れていたと思ったのです。実は、私は以前、深い絶望に陥ったことがあったのです。そのことがきっかけとなり、わたしは一気に終地の実現となるのです。そのときのことを思い出したのです。以前の信仰に純粋であったときのことを思い出したのです。人格的という意味でなく、信仰として純粋であったという意味です。絶望のなかで、如来に包まれ、貫かれたときのことを思い出しました。私はそのことを疎かにしている。忘れてしまっていると感じたのです。
 この曲は、カッチーニ作「アヴェ・マリア」です。シューベルト作の「アヴェ・マリア」は聞いたことがありましたが、カッチーニ作のものは初めて聞きました。この曲はカストラート(ヨーロッパの去勢男性歌手。高音域を保つために、変声期前の少年を去勢したという)のために作ったといいます。
 イメージされた若者はその後、そのまま神の国へと旅立って行ったのか、あるいは、再び力を得て、この世で生きることになったのかはそのときはイメージされてきませんでした。」

 この出来事より1ヶ月前ほどある夢を見ました。

〈夢5 心理療法家と対面する〉

「私はベテランのユング派の心理療法家のもとを訪ね面会します。私は自分のありのままを詳しく語ります。その心理療法家は私の話をかなり慎重に聞いています。私は専門家が私の状態をどのように判断するのか知りたいために、熱心になって話しています。私のその熱心さは、自分のことを認めさせようとしていないだろうか、また、精神病と診断されないように防衛していないだろうかと自身の状態をチェックしています。隠し立てせず、すべてをありのままに語ろうとし、説明しています。心理療法家のほうは、これは危険と思い、相当な慎重さで聞いているのがわかります。」

 以上の二つのことは何を意味するかはわからないのですが、わたしはその守りということに対して、興味を持つようになりました。そのことに関して、少し考えて見たいと思います。

 河合隼雄著『心理療法序説』のなかにある宗教家がタブーを犯したことによる破壊的な例はその守りについて考えるのに重要であるようです。是非、直接読んでください。要約して簡単に述べると、ある宗教家のもとへ心を病む人が送られてきた。その病気の程度は、医者が見離すほどひどいものであるという。いっしょに生活しているうちに、奇跡的に治ってしまう。その人は社会に復帰し、幸せな生活をしているという。その人がそのお礼をしたいというので、その宗教家を招くのです。いっしょに語り合っているうちに、その話しは異常なものとなり、結果的に、破壊的な結末となってしまったといいます。

 私は、この事実を知って、非常に恐ろしい気持ちとなりました。もし、私の場合であったら、きっとその宗教家と同じことをしていただろうと思います。せっかくの招きを断ることのほうが、失礼であるように思えます。何らかの理由によって、丁重に断る気にならないのであれば、やはり、それに応えてしまうでしょう。

 河合隼雄氏は、その宗教家が、絶対者の保護から離れた、普通の人として出かけていったために、そうしたことにつながったのであろうと述べておられます。私は、宗教家が守るべき範囲についてよく知らないのです。無知なのです。その無知が破壊的な結果を招く危険があるという事実を知り、私は、非常に恐れるのです。
 一体、われわれ素人が守るべき範囲とは何なのでしょうか。
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パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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