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スサノオとアマテラス

(前回の続きです。五年前のものです。)

 私はつい先日、老松克博著『スサノオ神話でよむ日本人』を読みました。アマテラスの誇大さはスサノオの行動によって縮小することを知りました。われわれ日本人は、アマテラス的側面とスサノオ的側面が存在するといいます。このことに関連することかもしれませんが、『法華経』が終地による自我肥大を縮小することを大きな目的の一つとしていることから、『法華経』はスサノオ的といえるかもしれません。『法華経』が世界各地の仏教圏の信仰と比較して、はるかに篤く信仰されているといいますから、このことと無縁ではないのかもしれません。

 ダンマの顕現によってアマテラス的な自己愛、誇大さのあり方でいることを反省せず、暴走を続けるならば、スサノオは建設的な破壊ではなく、ただ破壊のみで終わるような凶悪な破壊を引き起こすことにもなりかねないのでしょう。その著書によると、われわれ日本人の過去の歴史はその事態を繰り返しているといえるようです。余程慎重に接しなければ、凶悪なスサノオを呼び起こし、それに支配されてしまうことがありえるのでしょう。

 また、その神話において、スサノオは見捨てられる。その見捨てられ感は、怨みのかたちを取って、たたり信仰につながっていくとその著書は指摘しています。老松克博著『スサノオ神話でよむ日本人』には、「たたり神の多くは、見捨てられたり追放されたりした来歴を持っており、普段は眠っているが、いったん怒りに火がつくと爆発的な災厄をもたらす。」といいます。

 その著書に教えられることは、われわれはアマテラス的な誇大さに陥ったり、過剰な合理主義によって心の深層にある宗教性を無視し続けたりすることによって、スサノオをたたり神にしてしまってはいけないことになるのでしょう。われわれのすべきことはそれとの適切な関係を持つことが重要であるといえるようです。

 わが国で起きた宗教教団による破壊的な事件もそのことと無縁ではないようです。たたり神が顕現したということができるかもしれません。心を専門とする人たちがその凶悪さに隠れた合理主義による誇大さを認識する必要があるという主張に対して、われわれは耳を貸さなければならないのではないでしょうか。カルトを批判し、ダンマの顕現や伝統の正当性を主張することは、一見、もっともなことに思えます。しかし、それはアマテラス的な面に陥り、その過剰な舞い上がりによって、影を否認し、影を増大させて、破壊的なスサノオを呼ぶことになってしまうことにはならないのでしょうか。

(以上、次回もこれの続きを掲載します。)
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パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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