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こころの時代 仏教の根底にあるもの 玉城康四郎

すっかり、如来さまがお留守になってしまった。
検察の暴走のおかげでこんなことになってしまった。どうしてくれる?検察!(笑)

何か、また書きたいのだけれども、そう簡単にもとのペースに戻ることはできない。
今日は久しぶりに書いてみようと思いたった。何かのネタはないかな?と思い、ネットでネタを探してみていたら、よいページを見つけた。

以下、紹介。
仏教の根底にあるもの 東京大学名誉教授 玉城康四郎
 【これは、平成六年二月六日に、NHK教育テレビのこころの時代」で放映されたものである】と。それを文字にしておこしたものであるようです。
たいへん勉強になるので、ぜひとも、お読み下さい。

私が印象深く感じたものを以下、抜き出してみた。
【それはただブッダだけのご体験とか、或いは直結なさった聖徳太子だけのご体験というんじゃなくて、平々凡々の人間も、ブッダの教えをそのまま受け取って学んでいけば必ずこうなるんだ、と。これがブッダの経典の一番おっしゃりたいところです。それで一生懸命八十年の生涯に亘って、それを説き明かされたわけですね。】
【まったく反省してみれば、ウジ虫から一歩も出ない。わからんまま蠢(うごめ)いているんですね。】
【ひょいと自分が生きるという、何にもわからんウジ虫ですわ。これは離れられませんよ。】
【そういう論文を書いている時は、なんか高遠な世界だけにいるかというと、そうじゃないんですね。平生がウジ虫ですね。】
【業熟体ということは、言葉を換えれば、ウジ虫ということです。】

たいへんすばらしいことばである。
以下のことばは同意できない。
【何にもわからんね。それを教えて頂いた、ということが、もともと高慢心、或いはもともと我執の自分がそうならないで生きていける。仮にそうなろうとしたら、それをちゃんとならないようにしてくださる力を与えられている、ということが最高に有り難い。】
半分は同意できるが、半分はできない。その意味が何であるかは、拙ブログの以前のエントリーを熱心に読んでくださる方がいれば、既にお分かりいただけるのではないかと思いますが。どうなんでしょうか。
私の考えは以下のようになる。
如来が貫き、徹底しているとき、如来が中心になって働いているのであるから、自我の働きは脇役となっている。これを玉城康四郎がいうとおり、我執が飛び出すことをおさえて下さっているということはできる。しかし、それは、自我の働きが脇役となっているのであって、決して自我がなくなるわけでも、自我が変革されるわけでもない。このことが説明されていないと、というより、そのことに無自覚なのかもしれないが、それが説明されていなければならないほど大事なことである。

■■引用開始■■
金光:  そこのところでしょうか、親鸞聖人が晩年にうたわれたご和讃があるわけですが、その「地獄一定」とおっしゃった親鸞聖人ですが、有名な
 
     弥陀の本願信ずべし
     本願信ずるひとはみな
     摂取不捨(せっしゅふしゃ)の利益(りやく)にて
     無上覚(むじょうかく)をばさとるなり
 
これは八十五歳の二月九日の夢の中に、夜の夢の中に出てきたご和讃だそうですが。
 
玉城:  もう身体でそれを詠っていらっしゃる。身体で詠っていらっしゃるとか、「地獄一定」と。「地獄一定」これはもうほんとに凄いお言葉だと思います。地獄一定の自分が身体で無条件に、
 
金光:  摂取不捨の利益で、無上覚をば悟る。
 
玉城:  そうそう。
 
金光:  そこの世界は、もう「何宗だ、何宗だ」というようなことではなくて、それこそダンマそのものに包まれて生きている世界、と。
 
金光:  そう。私が、これが人間の言動だと思いますよ。それをブッダは教えて下さっている。その言動をこれから復活すると。甦らせていく、と。
 
金光:  そこのところに人間の業熟体の、人間の救われる世界がある、と。そういうことでございますね。
 
玉城:  そうだと思います。
 
金光:  どうもありがとうございました。
■■引用終了■■

玉城康四郎は最晩年の著書において、地獄と極楽は裏と表の紙一重の隔たりもない(趣意)といっています。
上記の無間地獄の体験よりも、平生の地獄に落っこちた苦しみの体験、無明・我執の業熟体に苦しむ玉城の姿の方がより深化している。ぜひとも、玉城康四郎の『仏道探究』(紀伊国屋書店に在庫あり。2010.2.8時点)を読んでいただきたい。絶版なようですから、古本で入手されるか、それができなければ図書館を利用して、お読みください。
玉城先生が亡くなる直前の論考は最高傑作で、先生の究極の到達点を明かしています。
これは本当に勉強になります。
手も足も出ない真っ暗闇の「私」にこそ、ダンマ・如来が顕わになり、貫いていくのです。体を貫き、脳天から上へ上へと向かって貫いていく。また、体から溢れて、ダンマが放たれていく。無限の空間へ向かって。
玉城先生は言わなかったかもしれないが、顔からも、目からも、肩からも、腕からも、手からも放たれていくのです。
この境地がしっかりと確定するようになれば、終地といってよいでしょう。
これは大乗の言う無生法忍です。
だから、これは仏道の基本の実現にすぎません。玉城康四郎の言うように、誰でも実現できるというのです。これは基本の実現にすぎませんから、はるか遠くの高みへと向かって、求道を開始することになるのです。道を完成したものが人を助けるという理解はまったくの誤りです。
ごく普通の人のままに、如来とともに、仏道を歩むのです。これは仏道の根本です。

われわれはひとりひとり、その実現をめざし努力する必要があるでしょう。
その実現を目指すとともに、仏乗に乗るためにも、発心をしなければなりません。
以前も、何度もいってくどいようですが、大乗の報身仏、阿弥陀仏や大乗の釈迦如来になることを目指す心を起こす必要があります。これはきわめて大事なことです。
いまだそれができていない方は、ぜひとも、その発心をしてください。
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プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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