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私の行は、どうなの? 師事って?

行というと、何か大袈裟な響きがありますね。
いまは、特別な行はしていませんが、以前より、自由に、勝手に実践しました。
素人で、なおかつ、指導者に師事して学んだことも全くありません。非常にいい加減なものです。
自分の体の感覚を重視し、それが納得できる方向を探りつつ、実践してきました。自分としては、それでいいのではないかと思っています。個人の信仰として十分です。仏の前に座り、何ともいようのない、安楽というか、帰依する気持ちというか、恍惚というか、ただ、ただ手を合わせるのみというか、そのようになることで、本当にありがたいし、それで十分で、安心です。それを人によっては、魔の境地と見ることもあるでしょうが、私はその意味もわかって、十分であると納得しているのです。

禅や密教は、必ず、師事して学ばなければならないとされています。師事して学ぶことの重要性はわかりますが、果たして、そのマイナスの側面を師自身が自覚されているのかどうかは非常に気になることです。師は魔の側面があることは、あまり言われないのは、危ないことです。

そもそも、宗教的な体験は、自我肥大を起こすものでしょうし、万能感に浸り、現実を見ることができなくなってしまうことは大いにありうることです。人を支配し、操作しようとする傾向もあるでしょう。自分は宗教的体験をしているのだから、優れているのだと他人を見下す傾向もあるでしょう。このことに無自覚であることは弟子にとって大変迷惑でしょうし、弟子の学びに有害となりえます。
このことから、師事すればOK、正しく学べるということに、かなり疑いを持っています。とはいえ、独学がよいということには、なりませんが。
正しい師がいれば、その人のもとで学ぶことがよいに違いないでしょうが、では、その正しい師とは、何なのか、それって本当に正しいの?と思ってしまいますので、私はその気にはなれません。

師は如来のみ。というのが本来でしょう。しかし、それはなかなか難しいことですね。玉城康四郎先生の著書や仏典を学ぶことは、仏道のな学びに大きな利益となると私は思っています。ただ、それを絶対視することはあってもならないとも思っています。探り探りながら、学んでいくことがやはり、大事ではないのでしょうか。
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プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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