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皆既日食

東京新聞2009年7月22日 夕刊Web記事によると、

「月が太陽を覆い隠す皆既日食が二十二日、鹿児島県トカラ列島や東京都小笠原諸島周辺であった。国内では一九六三年七月二十一日の北海道以来、四十六年ぶり。北硫黄島の船上からはダイヤモンドリングなどが観測できたが、多くの人が訪れたトカラ列島や屋久島などでは厚い雲が広がり、黒い太陽をみることはできなかった。部分日食も一部地域でしか観察できず“世紀の天文ショー”を期待した日本列島には、ため息が通り抜けた。 

 トカラ列島の悪石島は、皆既状態の継続時間が六分二十五秒で、人の住むところとしては今世紀最長だった。しかし、強い風雨が吹き荒れ、一時はツアー会社が屋内への避難を呼び掛けるほどの悪天候だった。全国各地で観測できるはずだった部分日食も北陸や九州、北海道などの一部地域を除いて天候が悪く、観測が難しかった。」


太陽が月の陰に完全に隠れ、コロナが輝く皆既日食=22日午前10時57分、鹿児島県・トカラ列島上空1万3000メートルで、本社機「おおたか二世」から(300ミリレンズ、ISO1600、絞りF5・6、250分の1秒、隈崎稔樹撮影)

毎日jp 特集ワイド:皆既日食、極める6分39秒 天と地と人一つに「五感で味わえ!」によると、
「古天文学者の渡辺敏夫さん(故人)の著書「日本・朝鮮・中国 日食月食宝典」などによると、1936年6月に北海道であった日食の場合、気温が13度も下がったという。皮膚感覚も刺激する日食は、太陽を食べる犬や魔物の仕業と考え恐れられたらしい。

 渡辺さんの研究では、弓なりの列島の真上を紀元前728年3月、カーブを描きながら縦断していった皆既日食が起きている。天を仰いだ私たちの祖先は鮮烈な衝撃を受けたに違いない。その実体験が強く心に刻み込まれ、語り継がれて古事記の天の岩戸神話に発展したとの説がある。

 日の女神・アマテラスオオミカミが、弟スサノオノミコトの乱行に怒って天の岩戸に隠れてしまう。高天原は真っ暗になり、災いも続発。そこで八百万(やおよろず)の神が一計を案じて祭りを催した。人々の笑い声を不思議に思ったアマテラスは岩室から顔をのぞかせたところを引きずり出され、世は再び光に包まれた--。

 この天の岩戸=日食説は、江戸時代に儒学者、荻生徂徠(そらい)が唱えてから定着したともいわれる。日本最古の記録が残る日食は、推古天皇の西暦628年4月に見られた部分食。日本書紀が「日がむしばまれて尽きた」と表現した。平安期の975年の皆既日食では、恐れおののいた朝廷が死刑囚まで大赦したという。」

日食は古来、不吉なものとされているようだ。インドの神話にもそれがあるみたいだ。
『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、

「ラーフとケトゥ

月の交点(黄道と白道の交点)のうち昇交点がラーフ、降交点がケトゥである。シャニ、ラーフ、ケトゥは凶兆の星とされ、南インドの寺院ではよく祀られた。

月の交点は、日食と月食の食に深く関係する。そのため神話化されインド神話のバラモン教の聖典「ヴェーダ」では、乳海攪拌の時不老不死の霊薬であるアムリタを盗み飲んだがスーリヤ(太陽神)とチャンドラ(月神)の告げ口でヴィシュヌのチャクラムで首を切られたアスラであった。アムリタを飲んだ首が不死のラーフ、胴体がケトゥという星となった。ラーフは太陽と月を飲み込むが胴体がないのですぐに太陽と月は現れてしまい、これが日食・月食になる。

ラーフ(羅睺)は転じて「障害をなすもの」の意味で、ラーフラ(Rāhula)(羅睺羅、らごら)として釈迦が息子に名にしたといわれる。

スサノオとの習合

羅睺星は平安時代の神仏習合の際、日食を引き起こしたスサノオと結び付けられ災いを引き起こす天体と考えられた。また、羅睺星を祭り上げる場合は黄幡神として道祖神のように奉るのが普通である。」

「ラーフ(Rāhu)は、インド神話に登場する、4本の腕と1本の尾をもつアスラの名。あるいはインドの天文学におけるナヴァ・グラハという9つの惑星(九曜)の1つ羅睺(インド占星術参照)。

神話によると、乳海攪拌のあと、神々とアスラは不死の霊薬アムリタをめぐって争い、アムリタは神々の手にわたった。神々は集まってアムリタを飲んだが、その中にラーフというアスラが神に化けてアムリタを口にした。それを太陽と月が発見し、ヴィシュヌ神に知らせた。ヴィシュヌ神は円盤(チャクラム)を投げてラーフの首を切断したが、ラーフの首は不死になってしまった。そして天に昇り、告口したことを怨んで太陽と月を飲み込んで日蝕や月蝕を起こす悪星になったという。一方、ラーフの体も天に昇ってケートゥという凶兆の星になったとされる。」

昨日21日は、衆議院が解散された。日食と政変のかかわりについてふれた記事がある。おもしろい。以下、転載。イザ!ニュースサイトより。

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古来より「政変前触れ」46年ぶり皆既日食の“吉凶”のニュース本文

2009/06/17 17:30

 7月22日、日本国内で46年ぶりに皆既日食が観測できる。この天体スペクタクルに国内は感動の渦に包まれそうだが、日食は古来より「政変や大惨事の前触れ」として不吉なものといわれてきたのも事実。次期総選挙を抱える永田町では、験をを担いで「政権交代は間違いない」「大政界再編だ」などとささやく声もある。
 国立天文台によれば、7月22日午前9時半すぎから正午すぎにかけ、全国で順次、日食を観測することができる。特に奄美大島北部、トカラ列島、屋久島、種子島南部などの地域・海域では皆既日食が観察できるのだ。日本の陸地では1963年7月21日以来46年ぶり、次回の2035年9月2日まで26年間起こらない珍事だ。
 現地に集まる天文マニアだけでなく、テレビやネットを通じて多くの国民がこのショーに酔うことになりそうだが、永田町の関心事はほかにもある。それが「日食→政変」説だ。
 例えば、古く中国では太陽は君主の象徴とされ、日食時に国家行事を行えば、臣下によって国が滅ぼされる前兆になるとされていた。日本でも、邪馬台国の卑弥呼の死因について「九州で2度、皆既日食が起こり、卑弥呼の権威が失墜して殺された」とする説を唱える人もいる。朝鮮半島の王朝に関しても、似たような記述がある。「惨事」についても、例えば関東大震災の23年、震災後ではあるが日食が起きた。
 過去、国内での日食はほとんどが太陽の一部が隠れるだけの「部分食」だ。それでも、その年の政治や事件を調べてみると興味深い。
 「政変」といえそうなケースでは、48年、芦田均首相(当時、以下同)による民主・社会・国民共同の連立内閣が崩壊し、第2次吉田茂内閣が発足した。57年には石橋湛山首相が脳梗塞を発症して退陣、第1次岸信介内閣が誕生した。
 78年には福田赳夫首相が現職にもかかわらず自民党総裁選で敗れ、第1次大平正芳内閣が発足した。85年には田中角栄元首相が倒れて政界の第一線から退き、87年には田中元首相とたもとを分かった竹下登内閣が発足、88年にはリクルート事件が発覚した。
 92年には東京佐川急便事件が起き、日本の政界を牛耳っていた金丸信自民党副総裁が辞任に追い込まれた。
 そして今年7月22日、皆既日食が日本で起こる。
 民主党秘書の1人は期待を込めて、「部分食なら自民党内の政権交代だが、今回は皆既日食だけに完全な政権交代だ。実際、55年の総選挙では、鳩山由紀夫代表の祖父である一郎氏が率いた民主党が過半数には届かなかったが第一党となった」と強気に語る。
 一方、ある自民党秘書は「53年には麻生太郎首相の祖父である吉田首相がバカヤロー解散を行い、少数与党になったものの政権は維持した。今の麻生内閣の置かれた状況と似ているだけに、今度の選挙もなんとかなるのでは」と祈るような表情で話すが、果たしてどんな異変が起きるのか。
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ちなみに、関東大震災は、1923年9月1日で、1923年9月11日に日食。

昔、日食と政変の関係する出来事はあったのだろうか。検索してみた。アラキラボHPのhttp://www.araki-labo.jp/shiso32.htmを見つけました。
以下、抜粋。

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●国分寺の創設
 続日本紀によると、聖武天皇は、天平13(741)年3月24日に「朕薄徳を以って忝く重任を受け、未だ政化を弘めず寤寐多く慚ず、・・」という言葉で始まる有名な詔を出された。
 聖武天皇は、この詔の中で全国に国分2寺(=僧寺としての金光明四天王護国之寺、尼寺としての法華滅罪之寺)をつくり、金光明経と法華経を普及することを表明された。
 この国分寺の建設は、770年ころまで30年をかけての大事業となり、三善清行がいうように、それにより国の富の半分が失われたといわれる。

 聖武天皇をこの大事業にかりたてた動機は、天平8(738)年ころから始まった疫病、不作、叛乱などの社会不安であり、天皇はこれを造寺、読経により神仏の力を借りてその不安を鎮め、神仏の力により国を守ろうと考えられたようである。

 その経過を辿ってみると次のようになる。天平8(736)年は、京、畿内をはじめ不作で田租を免除するほどになった。さらに、翌天平9(737)年の春には、遣唐使により持ち込まれた天然痘が九州から流行し始めた。

 天皇は天平9年4月に、太宰府管内の諸社に奉幣し病気退散の祈祷をさせたが、5月には不吉な日食が現れ、天皇の心配はさらに増した。聖武天皇は僧600人に宮中で大般若経を読ませられた。
 それも空しく、4月からは疫病と日照りが続き、天皇は天神地祇に供物を捧げて祭りをしたが効果はなかった。
 さらに7月から、天然痘は平城京の貴族にまで広がり、藤原不比等の子である右大臣武智麻呂ら4人兄弟が死ぬという悲劇に発展した。

 驚いた聖武天皇は、8月に天下泰平、国土安寧を祈念すべく宮中に僧侶700人を招いて、大般若経と金光明経を転読させ、1000人近い人を出家させた。
 当時の平城京は、一見したところ「咲く花の匂うがごとく・・」といわれるほどの華やかな異国風の建物が並ぶ都市であったが、聖武天皇のこころは不安にさいなまれていた。
 この年、聖武天皇は、伊勢、住吉、大神、香椎の神々に加えて、九州の宇佐八幡宮に新しく奉幣することを決められた。

 そのようななかの天平12(740)年9月、九州に左遷されていた藤原広嗣が、中央政治を支配していた僧玄?と吉備真備の粛清を訴えて挙兵するという大事件が起こった。
 飢饉、疫病、盗賊、災害発生に加えて発生したこの藤原広嗣の叛乱は、聖武天皇に言い知れぬ大きな衝撃を与えた。

 広嗣の乱は、官軍が2万1千人、広嗣の軍が1万5千人の大戦争となり、その結果は幸いにして広嗣軍が敗れて乱は平定されたものの、うち続く疫病、天災に加えて、この叛乱は聖武天皇に大きな衝撃となった。
 この聖武天皇の衝撃と心配が、国分寺、東大寺大仏などの造寺、造仏、そして難波京、恭仁京、紫香楽京、平城京復都という造都・遷都に繋がったと考えられる。

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日食は羅睺星によると。羅睺星はスサノオに関係する。スサノオと同一とされる牛頭天王。疫病神、祟り神。それは天神にもつながる。
先日の、浅草寺の敷石の怪があった。それより大分以前の、国会への二度の落雷もこのブログで紹介した。祟り神、雷神でもある天神。実は浅草神社の祭神は土師真中知命ですが、土師氏の子孫に天神・菅原道真が出ています。

アマテラスがスサノオの乱行により、岩戸にひきこもりますが、アメノウズメの裸踊りをきっかけに出てきます。これを河合隼雄は、肉体性の獲得と見ています(河合隼雄著『神話と日本人の心』)。引きこもりはイニシエーションで、これによって生まれ変わる。世界各地の神話の典型なようだ。

肉体性・女性性の否定は困ったものだ。
7月22日は、マグダラのマリアの記念日であるそうだ。おもしろい。
Dictionary of PandaemoniumのHPにはマグダラのマリアについて次のように説明されている(http://www.pandaemonium.net/rdb/menu/file/1845.html)。知りませんでした。勉強になる。以下、転載。

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マグダラのマリア ( マグダラノマリア ) 英名: Mary Magdalene

 『ルカによる福音書』において、イエス・キリストに七つの悪霊を追い出してもらったという女性の名前。イエス・キリストや十二使徒らとともに、宣教の旅を続けた。『新約聖書』の各福音書では、イエス・キリストが十字架にかけられ処刑された時、その様子を見ていた女性たちの筆頭として描かれている。中でも、『マルコによる福音書』及び『ヨハネによる福音書』では、復活をはたしたイエスは、まず最初に、イエスの墓を覗きに行ったマグダラのマリアの前に姿を現したと記している。マグダラのマリアはイエスが復活したことを、使徒たちへ伝えに行ったが、誰も信じなかった。ここの様子はグノーシス異端書『マリア福音書』に詳しく書かれており、イエスが死んだ後、使徒たちが嘆き悲しんでいるところに、マグダラのマリアがやってくる。ペテロはマグダラのマリアに、「あなたの覚えているイエスの言葉を私たちに話して欲しい」と促した。すると、マグダラのマリアは、たった今見た、イエスの幻視の事を語り始めた。驚いたペテロとアンドレは、そのマグダラのマリアの言葉を信じず、非難した。仲介に入ったレビがペテロに言う、「イエスが彼女をふさわしいものとしたならば、彼女を拒むあなたは、何様なのか」と。『救い主の対話』では、他のものすべてに勝る使徒としてマグダラのマリアを賞賛し、「万物を知る女」としている。グノーシス主義において、マグダラのマリアは十二使徒よりも、はるかにイエスに近く、その奥義を授かった女性とされ、『トマスによる福音書』などでも、あまりにイエスの近くにいるマグダラのマリアに対して、ペトロが嫉妬を抱くシーンが書かれている(ペテロはカトリックの始祖とされる使徒である。故に、これをグノーシス主義のカトリック批判とも言われている)。また、『ピリポ福音書』では、イエスの伴侶とされ、イエスはマグダラのマリアを他のどの弟子よりも愛し、しばしばキスを交わした事が書かれている。こうしたことから、マグダラのマリアはイエス・キリストの恋人だったのではないかと言われている。
 マグダラのマリアの生涯について詳しい事は、ヴァラギオンの『黄金伝説』に書かれている。マグダラのマリアはシルスとユーカリアの娘で、王家の血筋をひいていた。彼女と弟ラザロ、姉マルタは七つの城、ベタニヤの村、エルサレムの大半を所有していた(ラザロとマルタと、ベタニヤのマリアは『新約聖書』の各福音書にも登場する。ここではベタニヤのマリアと、マグダラのマリアが混同視されている)。マリアはガラリヤ湖畔のゲネサレから一マイル離れた、マグダラに住んでいた。マリアはヨハネと婚約をしていたのだが、ヨハネはイエスの使徒となり、イエスについて行ったので、婚約は破棄されてしまった。深く傷ついたマグダラのマリアは、ふしだらな生活を送り、七つの悪霊にとりつかれてしまう。その七つの悪霊をイエスが祓い、二人は親しい関係となる。イエスの死後、マグダラのマリアは、イエスの母マリアと十四年間すごしていた。その後、ユダヤ人たちによって帆の無い船に乗せられ、流刑にされてしまう。船は南フランスのマルセイユにつき、そこで彼女は宣教をはじめた。晩年が近づくと、自らサント・ボームの洞窟に入り、そこで生涯を閉じた。なお、マグダラのマリアの遺体は、その後、サン・マキシマンの地下納骨堂に移された。現在、聖マリ・マドレーヌ教会には、彼女のものとされている頭蓋骨が保管されている。南フランスの伝説では、イエスとマグダラのマリアの子が、メロディング王朝の祖となったという。かのレンヌ・シャル・トーの教会は、マグダラのマリアを奉じたものだった。
 マグダラのマリアは、「ふしだら」を人々に咎められた事から、「悔い改めた娼婦」というイメージで語られる事が多い。1224年に改心した娼婦のために各地で特別の修道会が創設され、「マグダラのマリアの館」と名づけられた。こうした「マグダラのマリア=娼婦」というイメージは、イシュタルやアフロディーティといった、キリスト教以前の愛の女神たちが、娼婦と呼ばれた事に由来しているのかもしれない。グノーシス主義でマグダラのマリアがもてはやされたのは、グノーシス神話の女神ソフィアもまた、「娼婦」と呼ばれたからである。マグダラのマリアとは、原始キリスト教が失った、女性原理そのものと言えるかもしれない。
 なお、ピェール・ジュネルの『聖人略伝』を見るに、現在ではイエスの復活を人々に伝えた女性として、地位を回復している。マグダラのマリアの記念日は、七月二十二日とされている。

項目情報


 作成者:JD
 作成日:
 更新日:2005-03-09 00:00:00

参考文献

『マグダラのマリア 無限の愛』ジャクリーヌ・クラン
『聖女と魔女』池上俊一
『黒い聖母崇拝の博物誌』イアン・ベッグ
『トマスによる福音書』荒井献
『イエス・キリストの謎と正体』斉藤忠
『神話・伝承事典』バーバラ・ウォーカー
『ナグ・ハマディ文書』エレーヌ・ペイゲルズ
『聖人略伝』ピェール・ジュネル
『新約聖書』日本聖書教会

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原始キリスト教が失った、女性原理そのもの。イシュタルやアフロディーティといった、キリスト教以前の愛の女神たち。ああ、なるほど。そうですね。仏教もそれを失っていることが多い。『金光明経』には、女神たちが登場することは注目すべきだ。私はこの経典が好きである。
浅草寺の白鷺の舞はのルーツは牛頭天王に捧げられたもの。アニマ・魂による舞。


ティツィアーノ『マグダラのマリア』 1530年代初め http://lapis.blog.so-net.ne.jp/2007-02-28-2より。
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プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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