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如来の主師親の三徳

本棚にある本を手に取り、パッと開いてみた。
そこには、日蓮の「釈尊の主師親の三徳」のことばがあった。
釈迦如来のみ、その三徳を具えているのであって、阿弥陀仏や薬師如来は他土の仏で、その三徳すべてを具えているわけではなく、主ではあるが、師、親ではない、と日蓮はいう。

そういう考え方もあってよいだろう。
しかし、如来のすべては「主師親の三徳」を具えているのであって、それに差別はない。
娑婆世界のに生まれた仏として、この世界に生きるわれわれと縁があるという点はわかるが、如来に差別はない。ただ、如来はそれぞれ法身でありながらも、その誓願によって、特性が違っているといえるだろう。

さて、先の本の次の項目には、「日蓮は日本第一の法華経の行者なり」の宣言がある。
この日蓮のことばに、なんとも、大胆不敵、豪胆、勇猛果敢さ、絶大の自信に驚かされる。
私は日蓮の信者ではないが、この日蓮の法華経の行者としての生涯を知り、その比類なき勇敢さと行動力、不屈の忍耐力に、ただただ驚かされるばかりである。武士という感じが強い。
私はそのような日蓮のことが好きである。戦闘的であるばかりでなく、とても人情味がある。人間味が溢れているように私には感じる。

「法華経の行者」を日蓮の教えと別として、どの宗派にも属さない私が、玉城康四郎の教えていることに沿った現代の世界に適応することばでいえば、
終地を実現して、さらにすすんで、仏乗に乗ることである。
これは玉城康四郎の教えていることに共感するものであれば、誰でも、それを実現できるはずである。そう、玉城康四郎は力説した。

日蓮のような凄まじい行動など、私にはできないし、そのつもりもないが、
仏乗に乗るということはできる。
これは、その人のままに、如来と二人連れとなって、生きることである。

人それぞれの個性があって、生き方もさまざまである。
その人がその人にしか生きられない個性的な人生を生きる。
仏道もそのようであるだろう。ユングは個性化の過程を歩むことの大事さを述べた。

そのことに宗派の違いは関係しないだろう。
仏乗あるのみ。一仏乗。仏乗に乗って、究極の完成である仏智を具えた報身仏へとなるための長い長い歩みが始まる。われわれも、釈迦如来や阿弥陀仏のようになり、浄土を持つ。その願いを持つことが大乗の菩薩には求められている。
われわれ凡人でも、いつかは仏になると経典は教えている。
その教えに従って、如来を純粋に帰依していこう。教義に縛られずに、その虜にならず、純粋な信仰心で。
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プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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