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何とも言えない心の奥の悦び

玉城康四郎著『ダンマの顕現』より、以下、引用する。

「私は親鸞晩年の書簡や『歎異抄』の言葉を読み比べているうちに、床松の信境が、親鸞をさらにこえてここまで熟してきたのかと、思わず感嘆をとどめ得なかった。…(中略)…ところで、私の体質からいうと、床松同行より才一老人の方に親しみを覚える。妙好人としてどちらがすぐれているというのではない。平々凡々に生きている私には床松の言動は少々意表をついているが、才一の歌はしみじみ同感する。…(後略)」


玉城は続いて、この稿のなかで、浅原才一の詩を挙げて、ダンマが業熟体に通徹している才一の境地を解説している。

玉城が、ダンマの徹底において、開祖をも超えた妙好人の境地をわざわざ挙げて説明しているのは、平々凡々たるわれわれでも、その境地は十分に可能であるという事実をわれわれに伝えようとする意図によるのだろう。
玉城はいつも、誰でもそのようになる、と力説していた。
玉城が最晩年の終地に到ったときも、同じく、誰でも、終地に達することができると力説した。
このことは玉城康四郎の著書をしっかりと読んだ人なら、承知のことであるだろう。

玉城康四郎が勧めた、行道の実践は周知の通り、念仏、唱題、坐禅など、われわれに身近なものを気長に続ければ、必ず、決定した境地を実現できると著書で述べていた。

行道というと、その言葉に何か大袈裟な響きがあり、われわれのような一般人を寄せ付けないイメージを抱きかねないものである。実際は、そのような縁遠いものではなく、われわれにとって、たいへん身近なものである。妙好人の実例を見れば、わかるだろう。

如来を実感することを体で学ぶことである。
それは難しいことではないし、難行苦行とは無関係である。易行である。

第三禅の【楽】を学ぶことを重点をおいてほうがよいだろうと私は考える。このことは以前のエントリーでも繰り返し述べた。

この【楽】、あるいはその前段階の【喜】は、われわれにとって、まったく想像もできないものではなく、経験したことのあるものでもあろうと玉城は述べている。以下、その箇所を引用してみよう。

玉城康四郎著『ダンマの顕現』より

「そうすると、皆さんもご経験があると思いますが、何かの拍子に、説明はつかぬけれども、ずっとこころの奥のほうで何ともいえない不思議な気持ちが起こる。何ともいいようのない悦びがずっと体の奥のほうで起こってくることをご経験になることがあると思います。それがはっきりした形になっていませんけれども、ダンマを伴うている悦びがある。そこに、ダンマが意識の底に、体の底に染みついてきている。それが意識の奥のほうで何とも表現しようのない、何とも言えない心の奥の悦びとなって感じられてくる。そしてそこに、「喜」という、そこからやがて「楽」という文字が出てきますが、その喜とか楽とかというのは、今申しますような体のずっと奥の方、心の潜在的、無意識的なずっと奥の方で感ずるところの情感の世界、安らかさ、平安、そういう感じであります。その喜が生じ、そういう奥の何とも言えない感じになっているものには、おのずから体が軽やかになり、安らかになっていく。そうして一番奥の心の平安、それが楽です。
 このようにして体も心も自分の全体が三昧に入り、ついに「ダンマの流れに入れるもの」となる。ダンマ・ソータ・サムアーバンナ(原文はサンスクリットがあるが、ここでは省略します)いのちの中のいのちの流れの中に私全体がそくりそこに入ってしまったものとなる。それをフッダは念仏と教えておられるのです。」



以上の玉城の説明は、体による学びの極意を示している。

【何ともいえない不思議な気持ち】【何とも言えない心の奥の悦び】は、われわれがよく経験することではないかと思う。本尊を前にして勤行する。坐禅する。寺へ行き礼拝する。などわれわれはこれらによって、そのような感じを経験するのではないか。それが大事なのである。
これを大事にした、ごく素朴ともいえる実践が、この道を学ぶ上で欠かせないことである。
ごく素朴な普通のものでよいはず。もし、これを何か仰々しいものとし、秘儀だ、極意だといって一般の人とは無縁のものとして、この根本を無視してしまうならば、本末顚倒していると言わざるを得ない。

われわれがよく経験するそのような【何ともいえない不思議な気持ち】【何とも言えない心の奥の悦び】こそ、玉城康四郎がいうとおり、【ダンマを伴うている悦び】なのである。

【何ともいえない不思議な気持ち】【何とも言えない心の奥の悦び】からはじめていく。これがさらに深まっていくと、原始仏典のブッダのいうように、すっぽりとダンマに包まれてしまう。さらに徹底し、深まっていくと、玉城のいうように、通徹するようになる。終地に達するのである。

以上のように、特別なことはない。
とてもシンプルである。
如来を実感して学んでいく。それを深めていくことである。それを自らの体で探求して学ぶのである。
これを体で学ぶのに、何か難しい教えを学ぶ必要があるだろうか??
ただひたすら、この体で学んでいくことが大事であって、ほかに何があるというのだろうか。
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パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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