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浄土と現実の世界の選択

(5年まえに書いたものです。)

 『十地経』は、無生法忍を実現することで、その実現した者は、涅槃に安住するあり方と、身体変現のあり方のどちらかを選択することになるとありました。このことは、他の大乗経典にも説いていることであります。『無量寿経』では、浄土に往生した者はすべて、不退転であり、浄土での生涯を最後とし、その浄土での仏道の実践によって、功徳が完成して、仏となることができる(一生捕処)といいます。ただし、例外があって、普賢行を実践する菩薩は別であるといいます。周知のように、普賢行とは、さまざまな世界に生まれ変わって、仏道を実践していくあり方のことです。敢えて、浄土の生活を捨てて、さまざまな世界で仏道を実践するということです。このことが先の『十地経』の身体変現のあり方に相当することになるでしょう。浄土での仏道の実践、つまり、一生捕処の菩薩の実践が涅槃に安住するあり方ということになります。
 『法華経』でも、それと同じことを説いており、この世で『法華経』を説く者は、敢えて浄土を捨てて、この世で『法華経』を説くために生まれているのであるといい、普賢行を行うものであるといっています。『法華経』も同様に、浄土と現実の世界を区別して説いているのです。また、『十地経』と同様に、法師となるためには、身体変現が可能であることを前提としています。『十地経』で述べたことと重複しますが、以下にそれについて説明したいと思います。
 『法華経』の法師品では、『法華経』を説く場合、慈住、空住に住すべきであるといいます。このことが無生法忍であり、玉城康四郎のいう終地の禅定に相当します。『法華経』譬喩品において舎利弗は、仏乗の説法を聞き、声聞地から転換して、終地を実現し、仏乗に乗ることができたといいます。舎利弗は、終地を実現し、慈住・空住に住することができていることになるでしょうから、法師として『法華経』を説くことができるのでしょうか。それについて、『法華経』の提婆達多品によって説明されています。以下にそれを述べたいと思います。この説法はきわめて重要な説法となります。
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パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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