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身命財を捨てること

【身命財を捨てること】が【法身の実現】となるという趣旨のことが『勝鬘経』の中で説かれている。
また、如来こそ、法身を実現している。法身と等しくなっているのであって、一生補処の最高位の菩薩であっても、法身を実現しておらず、無明住地の煩悩により、意生身を残している。無明住地の煩悩は広大無辺で、あらゆる煩悩の根源であるという趣旨が述べられている。この意生身は玉城康四郎のいう業熟体に相当する。

禅定において、自己放棄、何もしないこと、が、その極意であることは、以前も何度も述べた。
禅定において、身命財を捨てることは、まさしく、それに相当する。
終地の禅定は、何もしない、無為自然、如来のひとり働きである、といえる。玉城康四郎もその趣旨を述べていることはご存知の通りのことと思う。
この実現が法身の実現ではないことは、いうまでもない。終地とは、ダンマが業熟体に通徹し続けてやまないという事実であるからである。いいかえれば、如来と二人連れということである。
さらにいいかえれば、如来とともにする意生身であるということである。
意生身はダンマによって熟され、最終的には報身となる。法身と等しくなった報身である。
これには、無限ともいえるような長い期間をかけて、修行することで、実現すると大乗経典は説明している。
大乗経典では即身成仏できないという俗説は、まったく見当違いも甚だしい。その意味をまったく理解していないのである。
伝統宗派の説く即身成仏とは、この身のままで、ダンマを実証するということの意味に他ならない。
その実現が成仏であるというのでは、大乗経典のいう成仏とはまったく違うのであって、結果的に、大乗の教えを真っ向から否定することになってしまう。
ダンマの実証を阿羅漢とする原始仏典と同じことになってしまう。
その区別は絶対的に重要で、これを無視したら、完全に大乗経典を根幹から否定することになってしまう。

禅定において、身命財を捨てるといっても、真にそれが可能となるのは、法身の実現したときこそである。

終地の禅定は、無生法忍の実現であって、法身の実現ではないことは、しっかりと理解しなければならない。
これは単なる、仏道の基本の実現に他ならない。法身の実現に向かって、果てしない歩みが開始されるのである。
それは、その人のままに、如来とともに仏道を歩むことであり、仏乗に乗ることである。
これは誰しも可能である。玉城康四郎はそれを力説した。

禅定において、身命財を捨てるという自己放棄、つまり、何もしないことは、自身の探究次第で可能であり、誰しも可能であるという程度であるのだから、決して難業というわけではないといってよいだろう。

禅定から出て、日常生活において、われわれは身命財を捨てるということができるだろうか?
通常の人間にはそれはとても難しい。
たとえば、街中で、見知らぬ、あるホームレスに出くわしたとき、あなたはその人に、自身の全財産、あるいは、その半分、あるいは、今月の生活費などを与えることはできるだろうか。
私にはとてもできない。
われわれはマザー・テレサのように生きられるだろうか。
もちろん、そのように生きておられる方がいる。きわめて尊敬できるが、通常の人間から見れば、それは聖人のごとくであって、普通の生活を生きる人にとって縁遠い。

大乗経典は、いうまでもなく、そのような捨身によって、利他することを説いている。
大乗の特色はこの点にあることは既に誰しもが知っていることである。

これこそ、真に難業であると私には思える。
ホームレス支援に宗教者が関わっていることもよく知られたことである。その現場は相当なものであるという。

仏教者が、安全な場所に居て、利他が大事だと他人に説いて、自分はほとんど捨身もせず、偉そうにしているの見ると、虫唾が走る。その偉そうな姿と自身に姿に無知であるということに虫唾が走る。

特権的な立場で、人に盛んに喜捨を求め、自身はちょっぴり喜捨する。それも人からの尊敬を目的に。
何という意地汚さだろうか。

私はほんの少ししか喜捨できていない。
その自分の浅ましさは自覚していたい。
その情けない自分ではあるが、今後も、自分のできることで、何とか、喜捨していきたい。

喜捨はいうまでもなく、大乗の重要な実践である。
それはいたるところで、説かれていることだろう。

私はそれを積極的に人に説く気にはなれないわけであるが、この重要性は肌身で知っているつもりである。

さて、玉城の説く仏道に話しを戻すが、
玉城の著書の読者が、誤って、終地になれば、利他であるとか、法身の働きによってそのようになるとか、考えることは、終地の実際を無視した、願望投影、理想化にすぎないことであると以前のエントリーでも何度も述べた。

終地を実現すれば聖人のようになって、人に利他できるというは、事実を無視した幻想、妄想である。

利他が大事であると盛んに力説される仏教者がよくいるが、その人が終地になってから、そうします、などと考えているならば、何という酷さだろうか。

ダンマの体験あるなしに関わらず、喜捨によって利他することは、いますぐにでも、できることではないか。
その意思によるのであって、ダンマの働きによってではない。

如来を当てにして、自分は何もしないとは、あまりにも幼稚な考えである。

終地に対するそのような幻想は捨てるべきである。
等身大の自分であるよりほかない。その自身と向かい合うよりほかないではないか。そうではないか。
これは誰にでも当てはまることではないか。
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プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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