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日常においても、如来を思い浮かべてみる

盤珪は不生の仏心で居よ、と人々に説いた。
盤珪は不生の仏心のままで居るのが良い。それを他の念に移し変えるのがよくないというような趣旨を述べた。
しかし、われわれはそのようには、なかなかいかないだろう。
日常の忙しさの中で、そんな悠長で居られる人はいないだろう。そのようでいられる環境に恵まれた、ごく限られた数の人たちにしか、それは可能でないだろう。
ラマナ・マハルシのように、ひたすら禅定に住するとか、出家して、仏道に専念するとか(出家しても、自分の思うとおりの修行できるわけではないのが実情があると聞いている)、在家でも、経済的に、時間的に恵まれ、ひたすら、思うとおりに仏道に専念できるとか、そのような環境でないと、そのような生きることはなかなかできないのではないか。

たとえ、終地に達することができたとしても、生きていくことに忙しない、必死に生きていくなかで、不生の仏心のままで生きることはほとんどできないのではないか。とはいえ、玉城康四郎の実現した境地よりも、さらにダンマに徹底した場合、それがどうなるかどうかはわからないが。

如来が中心となって、お座りになっている状態から、自我が活発に働けば、如来がお留守の状態になってしまう。如来がお留守になるといっても、如来が常に居るわけであるが、自我が中心となって、その関わりから離れてしまう。如来と二人連れの状態から離れてしまう。

如来と二人連れの状態を保つためには、ある程度の自我の静けさが必要である。
その静けさの程度は、ある程度であって、当然、禅定のような静けさを意味しない。
安心して生きていける幸福に恵まれた人は、常に如来と二人連れで生きていけるかもしれない。
しかし、日常に苦労している人は、そんなことはとてもできない。
ただ、苦闘の中でも、如来を憶念し、如来と二人連れとなることはある程度はできるが、苦闘の真っ最中にそれはできそうにない。

苦闘の中で、ほんの少しでも、如来のことを思い出そう。それだけでも、ずいぶんと違う。
苦闘の真っ最中で、如来を祈り、念仏、唱題、南無観世音菩薩、真言などで、心の中でちょっと、お唱えするだけでも、ずいぶん違う。
あまりに、日常が忙しく、日々の勤行もできないということもあるかもしれない。そうであっても、ほんの少しでも、ほんのちょっとでも、如来を思い浮かべ、心のなかでも、念仏などを唱えることは大事であるだろう。
私はそのようにしている。

このように仏道についてのブログを書いている時間があることは、私はちょっとは恵まれているのだろう。この時間だけでも、少なくても、如来に関わっていられる。

誤解のないように言っておくが、日々の勤行は大事であることはいうまでもない。できるかぎり、実践したいものである。

勤行している以外の時間でも、如来を思い浮かべてみるのもよいはずである。

苦闘のときにも、如来と二人連れでいることも、ある程度はできる。玉城康四郎のいう終地はそのようなものである。
それを自身の体で確かめるほかはない。
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プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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