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如来は、私とともに、いつもおられる

ヨハネ福音書のイエスのことばに次のようなものがあるようだ。

私は一人ではない。天の父なる神は、私とともに、いつもおられるのだ

『ヨハネ福音書』より。

あるキリスト教の入門書には、これは、キリスト教信徒の信仰の姿でもあるという。
それは【イエスとともに人生を歩むこと】であるという。
とても深いことばであると思う。

このことは、仏教にも当てはまる。
このブログで、何度も述べているように、【如来とともに道を歩むこと】が仏道である、と。

玉城康四郎のいう【如来と二人連れ】の意味も、【如来とともに仏道を歩んでいくこと】にほかならない。
玉城のいう【終地】は、誰とも実現可能なもので、特別なものではない。玉城はそう力説した。

どうしたわけか。それを継承しようとする人たちのなかに、それを無視して、それを特別視している人が多くいるようだ。まったく理解に苦しむ事態である。

ダンマの顕現を得たことを、なぜ、あれほど自慢するのか、理解に苦しむ。
さらに、その体験自体すら、どうなのか?と思われるケースも。

その体験により思い上がり、それに無自覚ということほど、醜いことはないのではないか。
どうして、自身を導師と勝手に称し、あるいは、他称し、愚かな振る舞いを続けるのか?
そのような人たちは、とてもつき合えない。

ダンマの顕現を得て、阿羅漢になったとか、ブッダとなっとか、聖者の仲間入りとなったとか、そのような考えを持つ人は、気がふれているとしか思えない。

【終地に達しても、その人のままであるのが、事実である】。これは決定的な事実である。
これを無視して、ブッダとなるとか、菩薩となるとか、まったく的外れである。

如来とともに生きること、それが仏教の信仰である。
きわめてシンプルである。

如来は常に居るのであって、われわれがそれに気づかないだけである。それを体で知ることから、それははじまる。
これは誰しも可能な道である。

頭でっかちになって、わけのわからないことばかり勉強して、本来の信仰を見失っていることは、あまりに愚かである。その人たちがいろいろと本を書いているのだから、一般の人にとって、迷惑この上ない。そうではないか。

また、ダンマの顕現を得て、自惚れている人たちも、大いに病人である。迷惑この上ない。

そのような人たちに惑わされることなく、個々人が、如来への信仰を深めていくことが大事ではないか。私はそう思う。
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プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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