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竜女成仏

(5年まえに書いたものです。)

 多宝如来の弟子である智積菩薩は釈尊のすすめにより、文殊菩薩と法の論議をすることになります。文殊菩薩は海中において『法華経』を説き、人々を教化したといいます。そのなかでサーガラ竜王の八才になる娘は発心し、不退転の境地を実現しており、陀羅尼やさまざまな三昧を得ていて、智慧があって慈悲深いといいます。文殊菩薩はこの少女は無上の悟りを得ることができると智積菩薩にいいます。
 それを聞いた智積菩薩は「釈尊は菩薩のとき、長い時間をかけて多くの福徳を積まれて、成仏を実現されました。三千大千世界において衆生の幸福のために自ら身体を捨てなかった土地は芥子粒ほどもないのです。そのような実践ののちに成仏されたのに、どうして、この少女が一瞬にして無上の悟りを実現されることができるのでしょうか。誰が信じましょうか。」といいます。
 そこで、サーガラ竜王の八才になる娘は「如来こそがその証人であります。」といいます。
 舎利弗もまた、その少女に向かい、次のようにいいます。
 「あなたが発心し、不退転の境地を実現し、はかりしれないほどの智慧を実現していたとしても、それだけでは、仏の境地は得がたいのです。実際、女性が長い間、多くの功徳を積み、六波羅密の実践に励んでいても、今日まで仏の境地を実現した人は一人もいないのです。どうしてかというと、いままで、女性は不退転の境地を実現したものは一人もいないからです。」
 そこで、その少女は自身のもつ極めて価値ある宝珠を釈尊にお贈りします。釈尊はそれを快く受けられます。
 さらに少女は「釈尊が宝珠を受け取られたよりも、私はすみやかに無上の悟りを実現することができるでしょう。」といい、その場で男子の菩薩の姿になりかわり、成仏を示現してみせます。
 それを見た智積菩薩、舎利弗は沈黙してしまいます。

 ここでは、従来の一般的な理解を挙げて説明することは省略します。ここで、問題であるのは、舎利弗の偏見についてであります。それこそがこの品の最大のポイントなのです。
 舎利弗は既に仏乗の説法を聞き、声聞地より転換して、玉城康四郎のいう終地を実現し、菩薩として、仏乗に乗ることができています(既に譬喩品で説かれる)。その舎利弗は、竜女が舎利弗と同じく不退転の境地に達しているにもかかわらず、それを判断できず、いいまでの自身の偏見によって判断してしまっています。智慧があるとは全くいえないことになります。
 この品では、舎利弗は声聞乗として登場させているのではなく、終地を実現し、仏乗に乗ることができた菩薩として登場させていることに注目する必要があります。経典の意図はそこにあるでしょう。たとえ、仏乗に乗ることができたとしても、智慧があるわけではないということを伝えようとしているものと考えられます。多宝如来の弟子である智積菩薩も多宝如来の浄土に住む菩薩であり、終地を実現しているものとして登場させているのでしょう。

 終地を実現し、仏乗に乗ることができたとしても、もとの「私」であり、法師としての資格があるというわけではないということを表そうとしていると考えることが適切です。

 ここで、もうひとつ注目すべきことがあります。それは、竜女の変現です。竜女は舎利弗と智積菩薩のために、彼らと同じ身体である男子の菩薩の姿となり、成仏を示現していることです。この成仏の示現は、衆生は本来、空であり、本来、不生不滅の法身であることを表しているのであり、男女の性別や年齢、生まれに関係しないことを表していることを意味することはもちろんのことです。ただ、見過ごしてはならないことは、竜女が舎利弗や智積菩薩より、少なくても、仏道において一歩先に進んだ者として登場していることです。身体変現のあり方を、身をもって現しているということです。無生法忍に安住するあり方では、その身体変現は身についてないとする『十地経』の説法が当てはまることになります。舎利弗は法師ではないことを表していると考えられます。舎利弗も智積菩薩も浄土にいるあり方にとどまっているのであり、次のステップである身体の変現を得ることを竜女は促していると考えることができます。というのも、『法華経』では、無生法忍が強調されるのではなく、それに変わって、現一切色身三昧が強調されるからです。この三昧は、身体を変幻させる三昧であり、法師が必ず持つものであり、衆生にあわて姿を変えて説法するというからです。『法華経』に登場する観音菩薩、妙音菩薩、薬王菩薩などの大菩薩を例に挙げて、この三昧を身につけている説明しています。それほど、『法華経』は、この三昧をきわめて重要視しています。『法華経』がこの三昧を法師となるための前提条件のひとつとしていることは、『十地経』の身体変現の説法と通じることになります。

 無生法忍の境地とは、終地の禅定であり、一切は本来空であることを体感することです。法身は不生不滅であると禅定において徹底して体感されているにもかかわらず、「自我」はその禅定状態とは無関係に、それまでの自身の見方によって、仏道を理解し、他人を判断しているのです。自我はそのままであり、法師としての力はないのです。
 この説法が伝えようとしていることは、舎利弗が「空」に徹底していないこととしているのではなく、終地を実現していても、自我には変わりがないことを指摘することにあるのです。舎利弗は自我肥大を起こし、竜女を見下しています。みずから智慧があると思い、自らの判断によって、竜女が間違っていると決め付けるのです。この判断は、それまで以前の舎利弗を代表とする声聞の考えや、『法華経』成立以前の大乗経典の偏見を表しているのでしょう。無生法忍という「空」に徹底する禅定を実現しても、自我には、変わりがなく、それまで以前のあり方にとどまっている事実を指摘するのです。『十地経』が無生法忍の実現が仏智の実現ではないという指摘だけでは、どうかすれば、仏智ほどには智慧は実現してはいないけれども、悟りを実現していない人よりも智慧があると考えることにもなりかねません。この説法は、無生法忍を実現しても、智慧など全くない、その人の「自我」のままであることを前面に出して表現しているのです。舎利弗は、自分より優秀な仏道者まで、バカにしてしまう慢心に陥っているのです。この状態に陥ってしまえば、『十地経』のいうように、涅槃に安住して、身体変現へと向かうことはできなくなります。如来の働きでいれば、身体変現が可能であり、その状態でいれば、利他となると考えてしまいます。それは全く身体変現とはなっていません。自身が如来となってしまって、身体変現とは正反対の状態となっているのです。

 ですから、経典は「自我」のあり方を問題としていることになります。自らを見失うことになってしまってはならず、自我に変わりがないことをしっかりと自覚しつつ、「自我」を成長させていくことを要請していることになります。そのために竜女は登場しているのでしょう。竜女の師が智慧第一である文殊菩薩であり、『法華経』の法師となっていることも注目すべきことです。舎利弗は文殊の境地と比較すれば、全く程遠いことになります。竜女は文殊により、『法華経』の指導を受けて、学ぶことができていますが、舎利弗は全く学べていないことを表しています。終地を実現し、不動の確信を得ていると表明し、自身が智慧が働いて、正しくものを判断できると考えることを完全に否定していることになります。舎利弗は終地を実現し、ダンマの相続者となることができたと表明しますが、竜女の登場によって、『法華経』の相続者ではないと否定されているのです。それは智積菩薩にもいえます。『法華経』が真実であることを証明する誓願を持つ多宝如来の浄土に住んでいるのにもかかわらず、『法華経』の相続者ではないとしているのです。浄土において無生法忍を実現していても、それだけでは、ダメなのです。

この経典がなぜ、八歳の竜女を登場させているかを考えることは、重要です。それは先の述べたように、無生法忍を実現しても、法師でも、ダンマの相続者でもなく、智慧があるわけでもなく、その人の「自我」のままであることを指摘することにあることは、決して見過ごしてはならないことです。ただ、もうひとつ、重要なことを表しているようです。ユング派の河合隼雄氏は『ユング心理学と仏教』のなかで、日本人の盲点として、アニマ(内なる女性像、元型のひとつ)との関係を失われてしまっていることを指摘しています。八歳の重い喘息に苦しむ少女が箱庭療法によって、癒されていく過程にアニマが現れている事例を挙げて、日本人はそれとの接触によって、癒されていくのではないかと提案されています。
 ユングによると、アニマはたましいの導き手としての役割を果たす、個性化の媒介者であるといいます。舎利弗を導く竜女もその役割を担っています。老松克博氏が『アクティヴ・イマジネーション』で説明されている「先取り」をヒントに考えると、次のようなことがいえるのではないでしょうか。

舎利弗はそれまでの仏道者のあり方を代表しています。女性、動物、子供を軽蔑し、または、拒否しています。その軽蔑する者から、「自我」のありのままの姿を直面させられています。法師でも、智慧があるのでもないと。竜女は、舎利弗が次のステップへと進むべきことである身体変現を舎利弗の目の前でやって見せるのです。舎利弗は竜女を否定していますが、舎利弗のまずすべきことは、竜女の言うことに耳を傾けることです。それができなければ、舎利弗は涅槃に安住し、自我肥大のままであることになるでしょう。竜女の言葉に耳を傾ける仏道者の姿勢は、『法華経』よりずっと後の成立である後期大乗経典のひとつである『金光明経』において、さらに強調されるようになります。

竜女がなぜ、八歳であるのか気になりますが、その理由はよくわかりません。それに関係するかどうかわかりませんが、『仏伝』では、釈尊は八歳から十二歳まで、帝王学として、兵術、武術、天文、祭祀、文法、古典などを修得したといいます(早島鏡正著『ゴータマ・ブッダ』)。舎利弗は、法師となるためには、法師として必要な学問の修得が必要であるという意味もあるのかもしれません。

 次に、『法華経』で述べられている、薬王菩薩の前身である一切衆生喜見菩薩の求道の例について説明したいと思います。その品は、竜女が促したその次なるステップについて述べています。竜女の説法と同じく、きわめて重要な説法となっています。
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プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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