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焼身供養

※以下、5年まえに書いたものです。先の竜女成仏の続き。きわめて大事な説法。

焼身供養

 薬王菩薩本事品にある一切衆生喜見菩薩の道程をみてみましょう。

 『法華経』の薬王菩薩の前身である一切衆生喜見菩薩(この菩薩の名をサンスクリット語によって訳すと、すべての衆生に好かれる姿を持つ者。岩本裕 訳による)は、日月浄明徳仏より『法華経』の説法を受けます。その菩薩は禅定に専念し、ついに現一切色身三昧を得ます。現一切色身三昧を得たその菩薩はこの三昧を得ることができたのは『法華経』のおかげあると思い、如来と『法華経』の供養のためにその三昧に入って、神通力によって供養の品を捧げます。しかし、その菩薩は、神通力による供養は如来の供養として十分でない。自身の身体を捨てる供養によってこそ、真に供養となることができると思い、自身の身体を燃やすという焼身供養を行います。それを見た諸仏はその供養は最高の供養であり、真の供養であると褒め称えます。その菩薩は焼身を終えると、生まれ変わって、再び同じ日月浄明徳仏の国土に生まれます。その仏は自身が入滅することを衆生に告げ、入滅後はその菩薩に『法華経』と自身の舎利とを委ねます。その菩薩はその仏舎利を供養するために自身の腕を燃やします。そのようにしながらも、弟子たちを指導し、その弟子のすべてに自身の会得した現一切色身三昧を得させたといいます。それを終えたその菩薩の腕は元に戻り、身体は金色となった。それは菩薩が智慧の力と福徳の力を具えていたからであるといいます。

 一切衆生喜見菩薩は『法華経』の説法と禅定の実践により、現一切色身三昧を身につけたということになります。この三昧を得た一切衆生喜見菩薩は『法華経』と如来の供養のために焼身供養を行うことになります。この焼身供養の意味について考えてみる必要があります。

 『法華経』より後の成立である『涅槃経』には煩悩を薪とし、智慧を火となし、この因縁により、涅槃という飯が出来上がるとあります。また、さらに後に成立する密教経典では、内護摩(ないごま)ということが説かれます。『法華経』の焼身供養は、意生身をダンマの炎で燃やすという意味に解釈されることにもなりやすいのですが、その意味に解釈すると、如来の働きに徹底することで、法師となることができるというになり、先の説明と矛盾することになってしまいます。以前の私は、単純に、内護摩の意味に解釈していたのですが、ユング心理学の解説書を読むようになってから、その矛盾に気づき、その解釈では、不適切であると知るようになりました。ユング心理学の知見に教えられることで、次のような解釈になるようになりました。ユング心理学のいうイニシエーションと神秘的融即の解消の考えが焼身供養に当てはまると考えられます(神秘的融即については、老松克博著『アクティヴ・イマジネーション』参照してください)。その考えによって解釈してみますと、浄土を捨てることがそれに相当すると考えられます。

 『法華経』においても、『十地経』の説くところと同様に、浄土(涅槃)に安住することを捨て、法師へとの道の選択が行われています。神通力による供養は『無量寿経』が説いているように、浄土の住人が行う一般な如来への供養であります。この菩薩は、その浄土の一般的なあり方では不十分であることを自ら知り、それを捨てて、ひとり、普賢行の実践を自主的に選択しているということになります。ただ、その実践のためには、ただそれを捨てるのみでよいというのではなく、焼身供養というイニシエーションが必要であると説いていることが『十地経』とは違った、この品の特徴となっています。

 この焼身供養のイニシエーションを通過することで、生まれ変わって、『法華経』の相続者となることができるといっています。このことは、『法華経』の譬喩品において、舎利弗が玉城康四郎のいう終地の禅定を実現し、ダンマの相続者となることができたと宣言していることを否定するものとなっていることに注意が必要です。先の提婆達多品において、舎利弗は、竜女の教化によって、終地の実現だけでは、法師となることができるわけではない、もとの「私」のままであるという事実を突きつけていますが、この焼身供養の説法はその竜女の説法の延長線上にあるということができます。

 譬喩品において、舎利弗は、玉城康四郎のいう終地を実現し、仏乗に乗ることができていることは、釈尊より成仏の授記を得ていることから、『法華経』はそれを認めているということはできるでしょうが、提婆達多品、薬王菩薩本事品では、それだけでは、『法華経』の相続者であるとは考えていないということになります。この品では、終地を実現し、仏乗に乗ることができた舎利弗が『法華経』の相続者となるためには、焼身供養のイニシエーションを経験し、新たに生まれ変わることが必要であるというのです。

 焼身供養のイニシエーションを経て、新生した一切衆生喜見菩薩は、如来より『法華経』の相続者として認められますが、ここでは、まだ、法師となっているわけではありません。金色の身体の獲得法師となることを表しているようです。その根拠は、地涌の菩薩の身体が金色となっていることにあります。地涌の菩薩は、久遠実成の釈尊により、指導を受け、『法華経』の説法師となっているのであるといいます。『法華経』の相続者であり、法師である地涌の菩薩を意識して、そのように説いているのでしょう。

 では、法師となるためには、どのように実践するべきであるかというと、次の、腕を燃やすイニシエーションを経験することが必要であるといいます。『法華経』の相続者となった一切衆生喜見菩薩は、如来の供養のために自身の腕を燃やすイニシエーションを経験しつつ、弟子のすべてに現一切色身三昧を得させることによって、金色の身体の獲得、つまり、法師となることができています。このことは『十地経』の第八地の菩薩が身体変現を獲得し、衆生の教化を開始することになっても、まだ法師となっているわけではなく、その過程において、法師としての能力を養成していくことによって法師となることができると説いていることと同様となっています。実際に、法師としての仕事を行い、成果を挙げることができてこそ、はじめて法師であるといえるというのでしょう。『法華経』を相続したというだけで、法師であると考えることになってしまってはならない。法師となるためには、その能力を養成する必要があるといっていると考えられます。腕を燃やすイニシエーションは、『十地経』のいうも無数の身体の仏道の実践に相当することになります。金色の身体の形成は、ひとつの身体のみの仏道では、実現されないということを意味します。ダンマ・如来に徹底すれば、それがそのまま、法師となることを意味しないのです。また、焼身供養のイニシエーションを終え、『法華経』の相続者となっても、それだけでは、法師となっていないことを意味しています。腕を燃やすとは、変容していくためのイニシエーションですから、『法華経』の相続者となれば、相手を現一切色身三昧を得させるだけの力があるというのではなく、相手にその三昧を体得させるには、どのようにしたらよいかを学ぶ探求を意味しています。その探求によって、弟子のすべてを実際にその三昧を得させるだけのことができて、はじめて法師となることがてきたというのです。このことは、きわめて重要です。


この過程は、文化人類学のイニシエーションの過程に通じるものとなっています。

 文化人類学によると、イニシエーションは、三つの段階の過程を経るといいます。それは、分離、過渡、統合です。非近代社会の成人式を例にして説明すると、分離とは、母親の懐で生活していた子供が母親から引き離される段階。過渡とは、苦行や試練が与えられ、それに耐え抜いた者が大人として認められるのであって、その子供から大人へと移行する過渡の段階。統合とは、子供から新たに一人前の大人として生まれ変わることができた者が再び社会に戻ってくることであるといいます。

 この段階を『法華経』のイニシエーションに当てはめてみると、玉城康四郎のいう終地を実現して、如来の懐で生活していた者が従来の浄土における一般的な神通力による供養のあり方を捨てることが「分離」であり、そのあり方を捨て、焼身供養という苦行と試練を受けることが「過渡」であり、焼身供養を終えて、再び元の世界に『法華経』の相続者として生まれ変わってくることが「統合」ということになるでしょう。
 仏道者として子供の段階にいた者が一人前の仏道者と生まれ変わったことを意味することになるでしょう。終地の実現が仏道者としての一人前を意味するのではなく、それは、ただ如来の世界に生まれたというだけであり、まだ、子供の段階に過ぎない。大人の仏道者になるためには、焼身供養というイニシエーションを経験し、それを乗り越えてこそ、はじめて仏道者として一人前になれるというのです。仏道者として成人した者は、それだけでは、成人したというだけに過ぎない。また、法師という資格を得るためには、さらに、腕を燃やすイニシエーションを経験して、実際に、弟子に現一切色身三昧を身につけさせることができてこそ、法師と成れるというのです。薬王菩薩は法師であり、現在は、大菩薩ですが、はるか彼方の過去世においてこのイニシエーションを経験して、法師となることができたと経典は説いているということになります。それ以来、『法華経』を説き続けているということになります。

両者の対応関係をまとめてみると、次のようになるでしょう。

子供                        終地の禅定、浄土の子、如来の子
成人のためのイニシエーション       焼身供養のイニシエーション
成人                        『法華経』の相続者
専門家となるための訓練           腕を燃やすイニシエーション
一人前の専門家                法師、金色の身体

 上記のイニシエーションとは、『十地経』の説くことと同様に、法師となるための自我形成の過程を表していると考えられます。それは自我の関与によって行われていくものであり、安穏と禅定に専念しているだけによって、行われていくものではないといっていると考えられるのです。私がそのような解釈をするようになったのは、ユング心理学のおかげです。
 自我の関与とはどのようなものなのでしょうか。私はそれを適切に説明することは力不足のためにできません。それについては、老松克博著『アクティヴ・イマジネーション』を是非、参照してください。「自我」の姿勢の重要性が詳しく説明されています。私はこの著書に教えられるばかりです。
 アクティヴ・イマジネーションの姿勢は仏道の姿勢にとっても、きわめて重要であり、危険の落とし穴を回避するために、現在の仏道は大いに学ぶ必要があると想います。私個人としては、仏道の探求に必要な「自我」の姿勢を調える為に、その知見を学んでいるところですが、それがある程度目途がついたら、是非、アクティヴ・イマジネーションそのものを学んでみたいと思っています。

 終地の実現において、如来との一体化によって、自我肥大を起こす危険が大きいでしょう。もし、その状態に陥ってしまう場合、現実の人間として生きる、または、法師として相応しい自我形成の現実化へと向かうことはありえなくなってしまうでしょう。そのことを『十地経』も『法華経』も警告しているのです。終地の実現だけでは、法師であるとはいえないし、自我も何ら変わるわけでもない。法師となるためには、その自我を、自我の積極的な関与によって、改変していく必要があるというのでしょう。その作業には苦痛を伴うものであることを『法華経』は焼身供養という形によって表しているのではないでしょうか。


※掲載、以上。これは5年まえに必死になって、経典の解釈と禅定を行じ、探究してできたものです。いま、読んでみると、変えたい部分もありますが、それはやめておきます。これは如来のとても大事な説法であると思います。最極秘といえるものです。これが理解できれば、大乗仏典の核心を理解できたといえるのではないかとさえ思います。これをほとんどの人たちは理解していません。だから、『法華経』・正法は難信難解というのです。
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プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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