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聖娼

聖娼

 アマテラスはスサノオの悪行により、天の岩戸に引きこもる。アメノウズメによる性器を露出した踊りがきっかけとなり、外へ出てくることになるといいます。このことを河合隼雄著『神話と日本人の心』では、アテナや聖処女の近い存在としてのアマテラスがアメノウズメの肉体的側面を具える、より貴き神として再生するイニシエーションを表しているといっています。
 そのイニシエーションは古代バビロニアにおける聖娼の制度に認められるといいます。
「女性は結婚する前に女神の聖なる神殿に仕え、そこに来る外来の男(異邦人)と性交する。それは、女神との一体感の聖なる経験をするためであり、その後に女性は家に帰り、来るべき結婚の仕度をした。このことによって、彼女たちの女性性は、「より高い目的、すなわち女神の豊饒の力を人間の生のなかに効果的にもたらすという目的のためにささげられた」のである。」
 コルベット著『聖娼』では、「異邦人といっしょになることで、彼女は愛を与え、受け取り、維持するという、みずから内在する女性の本質に目覚めた。男にとっては、聖娼は生命の神秘な火花、すなわち完全で満ち足りた幸福感を再び燃え上がらせてくれる存在であった。その感覚は、おそらく聖域の外の世界では、残念なことにほとんど失われていた。聖娼との成功は、性愛の神秘を通して再生することであり、それは宗教的な教えの神秘とほとんど同じものだった。肉体と精神は一体となり、お互いを支えあっていたのである。」

 この聖娼の制度は、仏教にもどうやら、存在するようです。それはタントラ仏教です。
密教学者として有名な田中公明著『生と死の密教』では、「中世インドのタントリズムには、社会的基盤としての土着の存在があった。この宗教は、中世インドの葬場、尸林を舞台にしてくりひろげられた。多くの場合、尸林には土着の女神の祀堂があり、地元の巫女によって祭祀が行われた。彼女たちは、尸林を舞台とする黒魔術的な秘儀を行う魔女でもあったが、一つの母系社会を形成しており、社会的にも一定のステイタスを保っていた。
 そして、尸林の巫女たちは、巡礼にやってくる男性-おそらくは宗教行者-と、密かにあるいは公然と性的な関係を結ぶことがあった。そして、ヒンドゥーのタントラにおいて「チャクラプージャー」、仏教のタントラで、「ガナチャクラ」と呼ばれる饗宴は、彼女たちが、巡礼にきた男性行者と関係を結ぶための儀式から着想されたものと思われる。」

 仏教タントラにおいて、その成立の以前において欠落していた肉体性が取り入れられることになります。
 後期大乗経典である『金光明経』は、その成立の以前において欠落していた女性性を取り入れますが、肉体性については前面に出して語ることはありませんでした。堅牢地神は、地母神であり、生命の豊穣さの功徳を説いていますが、性については語ろうとしなかった。それが、密教経典である『金剛頂経』、『理趣経』によって語られるようになります。
 『理趣経』の有名な「セックスの恍惚の心地は菩薩の境地である」というそれまでの仏教を考えると衝撃的なことがこの経の冒頭で語られます。そののちに、一切は本来清浄であるからであると説明しています。つまり、大乗の立場は一切皆空、つまり、一切は本来法身であるというにもかかわらず、セックスのみを特別視して拒否するのは適切ではないというのです。

 この経典の中心テーマは大楽です。大楽とは法身のことです。浄土の楽が禅定の楽を表していることと同じであり、「楽」・法身の働きを享受することによって、ついには法身が実現されると説いているのです。つまり、この経典も大乗経典の説く仏道の根本を同じく説いているのであり、何か神秘的なことが隠されているわけではありません。ただこの経典の重要な点は、それまで仏教が語ろうとしなかった肉体性が語られていることです。それは、冒頭のセックスの説法のみならず、経典のおわりにおいて、七母女天というヒンドゥーでシャクティ(性力)として崇められる配偶女神や、四姉妹というシヴァ神の妃ガウリーの侍女、または、愛欲の神カーマやヴィシュヌ神の妃などが如来に対して真言を献ずることによって表わされています。
 肉体的エロスの側面を否定しないことがこの経の最大の特色であるといえるでしょう。この経の全体の内容は、それまでの大乗経典の教説の大事な点を大まかにまとめているものです。

 『無量寿経』では、阿弥陀仏の極楽浄土は物質的な点において魔界と同じあるとしていますが、その住人は天女の存在は別として、男性のみであり、女性は存在しないし、性交も存在しないとされています。性的なことはこの浄土の世界は拒絶されています。浄土経典よりずっと後の成立である『理趣経』においては、性的な面への極端な拒絶は否定されたということになるでしょう。『無量寿経』では、浄土は魔界でもあるという認識があったのでしょうが、セックスだけはタブーとして切り捨てられたのでしょう。しかし、それでは不適切な態度ということになるでしょう。

 セックスも魔界のものであり、浄土のものでもあるはずです。ユングは、「性は地獄から天国まで存在している」と述べているようです。仏教も『理趣経』の成立によって、ようやく、その不適切さを反省するのです。それは永遠の少年が女性との適切な関係を築けず、母親との密着から離れられなかったためであるのでしょうか。また、性を特別視するほどにそれを危険視して、一歩間違えれば、悪い面が生じてしまうことを恐れてのことなのでしょうか。

 ちなみに、浄土経典と同時期に成立したといわれる『アシュク仏国経』では、アシュク仏の浄土は男女がともに存在するとされています。それに関係してのことなのかわかりませんが、インド後期密教では、アシュク仏が注目されています。

(※以上、5年まえに書いたものを掲載)
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パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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